大相撲 出身地 なぜ


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協会の使命・組織. 研修会. アーカイブタグカテゴリー 大相撲が東西に別れている理由は諸説ありますが、今回はそのなかでも現在の大相撲の流れ、つまり興行としての大相撲における東西についてご説明します。今現在の大相撲のような番付表が作られ始めたのは、時代でいうと江戸になります。ちょうど徳川9代将軍〜10代将軍あたりの宝暦(1751年〜1764年)という元号の頃のお話です。「え? 相撲ってもっと昔からあったんじゃないの?」と思われるかもしれませんが、神事や宮中行事としての相撲と、現在の大相撲のような興行のための相撲は、別に考 … 指導普及部からのお知らせ. 職務分掌. 大相撲を通した社会貢献活動. 相撲の入場で出身地を言うのはなぜですか?出身地と何か関係があるのですか?東京、名古屋、大阪、博多と場所はあるわけで、当然地元出身の力士がいるわけです。例えば名古屋で相撲を初めて見る人に「愛知県出身の力士に がいたのか」と 相撲中継や土俵入りの時には、所属部屋と共に出身がどこなのかを教えてくれます。そこで同郷の力士を見つけると急に親近感が増すものですよね。では、十両・幕内では何人か知っていても、それ以下の段にはどれだけいるのか分からなかったりしますよね。また、関取がひとりもいない出身地の方もいると思います。そこで今回は、また、当サイトではこの記事の目次このように幕内から三段目までは定数が決まっており、十両から三段目までは枚数が毎回固定です。幕内は総数が42名と定まっていますが、例を上げると…平成31年初場所は3横綱・3大関・2関脇・2小結の10人が「役力士」でした。ということはところが平成31年3月場所の番付は2横綱・3大関・2関脇・2小結と、稀勢の里が引退したことにより役力士が9人に減ったので番付の仕組みに関してはこちらのページにまとめていますので、興味のある方はぜひ御覧ください。⇒ さて、お待たせしました。次からはいよいよ出身地ごとの力士数などを見ていきましょう思った以上に出身地ごとの力士数にばらつきがあることが分かると思います。次からはいろんな項目に絞って並び替えたり色分けをしていきましょう。それでは詳しくみていきましょう。まずは出身力士が多い地域は何処か?令和2年3月場所の番付をもとに一覧表を作成して順位付けをしました。総力士に対する比率もあわせて載せています。この表は上下左右スクロールします。1位はやはり人口が多いこともあり東京都でした。2位以下も人口の多いところが順当に並んでいる印象がありますが、そのなかでモンゴルは一大勢力としてランクインしています。次は十両と幕内、いわゆる関取が多い出身地を見てみましょう。関取の総数は70人、つまり力士全体の約1割という狭き門です。やはりと言うべきか、しかし日本勢も負けていません。2位には鹿児島県と力士数トップの東京都がつけています。ここで一覧表の順番について補足しておきます。ランキング対象の数値が同数の場合、同じ順位として扱っていますが、別の項目を考慮して同じ順位のなかで記載する順番をコントロールしています。例として4位をみてみましょう。関取2人で8つの出身地が並んでいますが、内訳をみていくと青森、熊本、福岡はすべて幕内力士で、茨城、福島、大阪は幕内と十両で1人ずつ。そして沖縄よ高知県はすべて十両力士です。この内訳と総人数を考慮して並び順を決定しています。3位には石川、埼玉、兵庫、千葉がつけています。このなかで特筆すべきは石川県が関取3人を擁していることでしょう。一覧表には総力士数もあわせて載せていますが、そこをみると石川県の総力士数は9人しかいません。10人のうち3人が関取というのは驚きではないでしょうか。昔から相撲の盛んな石川県の面目躍如といったところです。ここでも目に留まるのはやはりモンゴルの54.5%という数字ではないでしょうか。一時期よりは少なくなった印象もありましたが、それでもモンゴル出身力士の半数以上が関取って…凄いですね。そして先ほどもご紹介した石川県は30%という高水準になっています。鳥取、奈良、そして意外なところでは沖縄も高水準ですね。大相撲の世界で関取と呼ばれる力士の定数は70名と定められています。ということは約1割しかいないわけです。関取がいない出身地はどこでどれほどあるのか?つまり「幕下以下比率100%」の出身地ということになりますよね。ここではその比率を一覧表にしてみました。100%の出身地は20の地域があることが分かります。これだけでは特徴が掴みにくいので、さらに序ノ口、序二段など下位力士が多い出身地を上段に並べてました。例えば徳島県と福井県では徳島県の方が力士数は多いですが、福井は2人とも三段目力士なのに対して、徳島は3人とも序二段以下だということが分かります。「関取がいない」という意味ではどちらも同じですが、その中でも力士構成で差がついているんですね。なかなか興味深い感じになりました。関取の人数が重要であることには変わりがありませんが、ここで分かるのはそれに続く幕下力士がより重要だということです。ではこれまでの情報を視覚的に振り返るために各出身地別の力士数とその構成をグラフでご用意いたしました。どうぞご覧ください。このようになっていました。グラフで見ると分かりやすいですね。いかがでしたでしょうか。冒頭に書いたように誰か応援する力士がいると相撲観戦はより面白くなります。ぜひ、郷土の力士をみつけて応援してみてください。当サイトでは出身力士を探しやすいように、出身地ごとのページをご用意しています。これは、ただの一覧ではなくまた、こちらでは部屋別の力士数などを調べています。興味がある方はぜひどうぞ。⇒最新場所での成績でランキングも作成しています。興味のある方はどうぞ。※当サイトは個人が運営するサイトであり、日本相撲協会及び、各相撲部屋とは関連がないことをご了承ください。内容に問題なければ、下記の「コメントを送信する」ボタンを押してください。※当サイトは個人が運営するサイトです。© 2017 - 2020 大相撲のはてなに効く!観戦ガイド All rights reserved.▲TOP

夏期相撲大会等催事について. 大相撲の魅力はいろいろあれど、そのひとつに、誰が見ても取り組みの結果がわかりやすいというものがあるでしょう。とてつもなく簡単にいえば「土俵から相手を出せばいい」という単純明快なルールは、大相撲ファンでなくとも知っていることです。ですが、大相撲にはその反面、他の格闘技やスポーツなどとは異なる部分も多く存在します。例えば、土俵で向かい合う二人の力士はしばしば「東方力士(ひがしたかたりきし)」「西方力士(にしがたりきし)」とアナウンスされたりします。そう! 大相撲では番付で東と西に力士が別れているのです。「なんで東西なんだろう?」という疑問は多くの方がもたれるものでしょう。私も、幼い頃に祖父とテレビで大相撲を見ながら「なんでかな〜」とぼんやり思っていたものです。今回は、大相撲の東西についてちょっとした歴史と、東西による違いの有無、どのように分けているのかなどをご紹介します。このページの目次一覧大相撲が東西に別れている理由は諸説ありますが、今回はそのなかでも現在の大相撲の流れ、つまり興行としての大相撲における東西についてご説明します。今現在の大相撲のような番付表が作られ始めたのは、時代でいうと江戸になります。ちょうど徳川9代将軍〜10代将軍あたりの宝暦(1751年〜1764年)という元号の頃のお話です。「え? 相撲ってもっと昔からあったんじゃないの?」と思われるかもしれませんが、神事や宮中行事としての相撲と、現在の大相撲のような興行のための相撲は、別に考えていたほうが混乱が少ないと思います。この宝暦の番付ですでに東西は存在しており、最初のうちは現在の滋賀県、近江国を境に東西を分け、力士の出身地によって東西を分けていたようです。そもそもなぜ「東」と「西」を使っているのかについても諸説ありますが、これには宮中行事としての相撲の流れが重要になってきます。奈良時代〜平安時代に行われていた宮中行事の「相撲節会(すまひのせちえ)」では、すでに力士の配置は東と西になっています。なぜならば、この行事を見ている天皇が北に座っていたからです。「天子南面」という言葉がありますが、ざっくばらんに言えば「天子(世の中を支配する人物)は南を向く」というということです。つまり「相撲節会」でも、当時の天皇は北を背中に背負って南を向いていたわけですね。すると、力士が配置されるのは自ずと、東と西になるわけです。おそらくその名残で、興行としての相撲も東と西に力士を振り分けたと考えられます。さて、大相撲の力士は東西に分けられていますが、その力士に違いはあるのでしょうか。結論から申せば、あります。同じ番付であっても東方の力士が、半枚上として考えられています。つまり、横綱が2人いる場合は西の横綱より東の横綱のほうが半枚だけ格上ということになります。なぜ東のほうが格上とされているかといえば、これにも諸説あります……。しかし「東のほうが半枚上」が定着したのは、1909年の以降になります。1909年当時の相撲は、今のような個人戦の相撲ではなく、東方と西方での東西対抗方式でした。ちなみにこの方式は「東西制」と呼ばれています。そして、優勝した方を、翌場所に東に配置したので「東が半枚上だぞ」という意識が一般的に浸透したと言われています。また、そもそも東は北から見て左側になります。日本では古来から、左と右であれば左のほうが格上とされてきました。例えば、雛飾りでおなじみの左大臣と右大臣は、左大臣のほうが偉いですよね?つまり天皇が座した北から見て左側、東のほうに格上がくるという考え方もあります。さて最初の項目で、はじめのうちは出身地によって東西を分けていたといいました。ですが、これはそのうちとりやめられ、出身地とは関係なく力士を東と西に分けるようになります。1909年から始まった「東西制」のころは、東方力士と西方力士は原則として固定でしたが、東と西の力が拮抗するように、ときどき力士の入れ替えを行っていたようです。現在は「部屋別総あたり制」が取られており、同じ部屋の力士同士以外との総当たりで取り組みが行われています。(※例外:別の部屋であっても、4親等以内の血縁がある力士同士は対戦させない)そんな今では、力士は個人の成績に応じて、東と西に振り分けられます。例えば、横綱が2人いるとします。すると自然と「東横綱」と「西横綱」に割り振られますよね? このとき、前の場所で好成績だった横綱が「東横綱」になります。先ほど説明したとおり、東のほうが半枚上だからですね。他の力士もおおむね同じよう考えられます。それぞれの勝ち星に応じて、まず番付が決まります。そしてひとつの番付に対して力士は東西2人が存在するので、基本的には同じ番付同士で。より好成績だった力士が東に入ります。もちろん例外もあります。番付は、勝ち越しの星1つに対して1枚というのが基本的な考え方です。つまり「8勝7敗で1枚上がる」「7勝8敗で1枚下がる」というのが番付の大原則です。ですが、もし8勝して「よっしゃ!1枚あがるぞ〜」と思っても、自分より上の番付全員が勝ち越ししていたらどうでしょう。上がる場所がありませんね。また、すぐ下の力士が10勝していたら、追い抜かれてしまいます。このような東西の分け方を含めた番付の編成は、「番付編成会議」で決められます。「番付編成会議」は、本場所終了後3日以内に執り行われ、主に審判部に所属している部長・副部長・委員が出席します。大相撲が東と西に分かれている理由や、分け方などをご紹介しました。最後にまとめておきましょう。全体的に「諸説ある」ということが多すぎる気もしますが、はっきりとしたことがわからないのは、それだけ相撲の歴史が古いということです。現在の大相撲における東と西は、番付編成が大きく絡んでいます。そしてその番付編成の大きな要素が力士の「勝ち越し」「負け越し」です。大相撲を見ながら、「勝ち越しってことは来場所は上がるな」などと自分なりに番付を予想すると、もっと楽しく観戦できると思います。ぜひぜひ、東と西に興味を持ったこの機会に、番付編成も楽しんでみてくださいね。
寄贈について. 大相撲で力士の出身地がアナウンスされますが、なぜ出身地を「自分が生まれた育った所」にしない力士がいるのですか?・寺尾(現在の錣山親方)や逆鉾は生まれも育ちも「東京都」ですが、現役時になぜか出身地を番付で「鹿児島」と表記されていました。なぜでしょう? メタ情報Copyright© muvuvu , 2020 All Rights Reserved. 指導普及部へのお問い合わせ.

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