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1835年12月3日、薩摩藩士「肝付兼善」の三男(四男という説も)として誕生。 母は兄を溺愛・・・そのため母からそれほど愛されずに育った小松帯刀。 小松帯刀の銅像は、その大政奉還時の様子をイメージして造られました。 顔は、かつて仕えた 島津斉彬 、 久光 、 忠義 の銅像がある、照国神社と探勝園の方向を向いています。 小松帯刀像の台座には以下のような説明文があります。 明治維新の推進者 小松帯刀像銘文.
小松帯刀がいなかったら、明治維新は変わっていたという程に歴史上重要な人物。でも、維新十傑の中での存在感は、かなり低いのでは?でも、若くして薩摩藩の家老となったエリートで、薩摩隼人として西郷隆盛らと維新を駆け抜け不滅の功績を残しました。 この像は京都二条城会議で真っ先に筆をとって署名し、将軍徳川慶喜に大政奉還を勧告、王政復古を実現させた小松帯刀の功績をたたえる像である。 時に小松33歳。 この記事へのコメントはありません。この記事へのトラックバックはありません。Copyright © 検索ボックスにお好みのキーワードを入れて下さい。当サイト内の記事を探せます。本サイトはリンク報告不要です。スポンサーリンク 目次 この記事へのコメントはありません。この記事へのトラックバックはありません。Copyright © 鹿児島幕末旅行2日目は石碑&銅像中心に巡っています。「今回は「小松帯刀像」を紹介します。 市電「朝日通」電停を宝山ホール・中央公会堂方面に歩くと、向かいにある 小松帯刀像は宝山ホール(県文化センター)前にあります。西俣敏弘氏の作品。袴に隠れているのでどうも足が短いような気がしますが、小松帯刀像を見たときは嬉しかったですね。小松帯刀像の台座には以下のような説明文があります。明治維新の推進者 小松帯刀像銘文この像は京都二条城会議で真っ先に筆をとって署名し、将軍徳川慶喜に大政奉還を勧告、王政復古を実現させた小松帯刀の功績をたたえる像である。時に小松33歳。慶応3年(1867年)10月13日であった銅像寄贈者:小松帯刀顕彰会参考:小松帯刀像銘文より 本当にそのとおりだと思います。それがもっと有名になってほしいという思いがあるので、この銅像は本当に嬉しかったです。 小松帯刀はこれまで注目されていませんでしたが、ドラマ「篤姫」で一挙に話題になり、有名になりました。これはとても嬉しいことですね。やはり藩の場合は、家老が重要であるにもかかわらず、ドラマ等では端折られることが多いんですよね。坂本龍馬が「日本で初めての新婚旅行」と言われていますが、どうやら小松帯刀がそれより10年早く霧島に新婚旅行に行っていたそうです。まぁ、それを言ったらどんどん出てきそうな話題ではありますが…。明治維新の立役者となった小松帯刀ですが、版籍奉還を実現した次の年(明治2年)に亡くなってしまいます。彼が生きていたらどうなっていたのだろうか?色々と考えてしまいます。彼の死は本当に残念です。 小松帯刀像を後にして、目の前にある西郷隆盛像に向かいます(つづく)。 明治三年(1870年)7月20日は、 小松帯刀(小松清廉) が亡くなった日です。 清廉は「きよかど」と読み、通称の「帯刀」は「たてわき」ですね。こちらでご存じの方も多そうです。
明治三年(1870年)7月20日は、清廉は「きよかど」と読み、通称の「帯刀」は「たてわき」ですね。こちらでご存じの方も多そうです。大河ドラマの幕末モノでもお馴染み、薩摩藩きってのフットワークと頭の回転を持つ人物。それだけに、明治に入ってわずか三年での死去は多くの人に惜しまれました。激動の時代を、帯刀はどのように駆け抜けていったのでしょうか。 お好きな項目に飛べる目次お好きな項目に飛べる目次帯刀は、薩摩藩鹿児島城下に屋敷を構える肝付家に生まれました。これで「肝付=きもつき」と読みます。そのまんまではありますが、初めて見るとびっくりしますよね。上にお兄さんが何人かいたようなのですが、特に両親は次兄を寵愛しており、寂しい幼少期を過ごしていたとされています。現在で言えば中学生くらいの歳からは学問に目覚め、漢学者について儒学を学びました。もしかしたら、学問を身に着ければ両親が自分を見直してくれるかも、と思ったのかもしれません。子供にそんなこと思わせたらアカン(´;ω;`)ブワッしかし、あまりにも熱心すぎて昼夜を問わず勉強していたらしく、元々丈夫ではない体質をさらに弱めてしまいました。20歳にもならないうちから、寝こんだり湯治に行くことも珍しくはなかったようです。しかも、湯治に出かけた先でも土地の人や身分の低い人にいろいろな話を聞きに行っていたとか。また、歌道や武術にも励んでいたとのことですので、薩摩藩士として恥じないようになろうという気持ちがかなり強かったのではと思われます。その心構えは立派ですが、もっと自分を大事にしてほしかったですね……。この時期に彼を諌めたり気遣ってくれる人がいなかったことが、帯刀の最大の不幸かもしれません。続きを見る 帯刀の努力が実ったのは、彼が21歳になった年のお正月のことでした。鹿児島城の奥小姓に任じられ、同じ年の5月には江戸で働くようにと命じられたのです。長年の苦労が報われ、帯刀もやる気に満ち満ちていたことでしょう。しかし、江戸にはわずか2ヶ月しかいられませんでした。特に何か問題があったわけではなさそうなので、おそらく結婚のためだと思われます。江戸からとんぼ返りした翌年、薩摩の吉利(現・日置市日吉町吉利)という場所の領主である小松家に婿養子入りしているのです。当主・小松清猷(きよもと)に子供がなかったので、その妹・近(ちか)と結婚することになったのでした。もしかしたら、奥小姓や江戸詰めも「他の家を継げるだけの力量や人柄があるか」という試験だったのかもしれません。そして無事お眼鏡に適った帯刀は、小松家の家督を継ぎました。「帯刀」に名を改めたのは結婚から三年後のことです。この年に続きを見る同時期に主従両方で世代交代が起きていたんですね。 島津忠義は帯刀の才を見込んで、薩摩の洋式技術所・その後も長崎に行って軍艦や西洋の砲術・砲について学んだり、藩政改革に取り掛かったりと、重要な仕事を次々に受け持つようになっていきます。この頃の部下に、続きを見る上記の通り、帯刀は若い頃から身分の別け隔てなく話す人でしたので、当時から大久保と親しく話したこともあったのでしょう。大久保との目立った逸話はないようですが、西郷は自宅で初めて帯刀を迎えた際、わざと寝転がって器量を試したといわれているのです。普通の人ならムカ着火ファイヤーどころじゃありませんが、帯刀は怒るどころか、枕を持ってこさせて西郷をゆっくり眠らせてやろうとしたとか。心、広すぎ。西郷は慌てて飛び起きて非礼を詫びました。続きを見る詳細は不明ながら、険悪な雰囲気になりそうな場面で上手に取り持った様子がなんとなく想像できてしまいます。続きを見るまた、忙しい合間をぬって妻を気遣っていたようで、結婚から間もない頃に薩摩藩内の栄之尾温泉へ旅行したことがあります。これが日本初の新婚旅行といわれていますね。知名度のためか、続きを見るこれらの逸話からも、帯刀が身分や性別別け隔てなく、真摯に接していたことが伺えますね。 慶応2年1月21日(1866年3月7日)に近衛家別邸・御花畑屋敷(京都市上京区室町通鞍馬口下ル)で締結された、薩摩藩と長州藩の同盟が薩長同盟。坂本龍馬や中岡慎太郎の斡旋もあって、薩摩藩の西郷隆盛、長州藩の木戸貫治(木戸孝允)が6ヶ条の同盟を締結したのです。 小松帯刀像の台座には以下のような説明文があります。 明治維新の推進者 小松帯刀像銘文. この像は京都二条城会議で真っ先に筆をとって署名し、将軍徳川慶喜に大政奉還を勧告、王政復古を実現させた小松帯刀の功績をたたえる像である。 時に小松33歳。 1835年12月3日、薩摩藩士「肝付兼善」の三男(四男という説も)として誕生。 母は兄を溺愛・・・そのため母からそれほど愛されずに育った小松帯刀。 薩長同盟のための会談は、二本松の薩摩藩邸で始まり、さらに薩摩藩家老・小松帯刀邸に場所を移して続けられた。 碑の立つこの場所の向かい側に、近衛家の堀川邸があり、小松帯刀はその邸を住居としていたことから、薩長同盟はその地で締結されたと推定される。 肝付家と聞くと二つのイメージが出るのではないだろうか? ひとつは大隅の盟主。そして、もうひとつは小松帯刀(肝付尚五郎)の生家ということである。 喜入肝付家墓所 なお、大隅に君臨した本家肝付家 … ≪小松帯刀の生涯と早すぎた最期≫ 小松帯刀の生涯と最期を解説いたします。 生い立ち. ≪小松帯刀の生涯と早すぎた最期≫ 小松帯刀の生涯と最期を解説いたします。 生い立ち. 目次
明治三年(1870年)7月20日は、 小松帯刀(小松清廉) が亡くなった日です。 清廉は「きよかど」と読み、通称の「帯刀」は「たてわき」ですね。こちらでご存じの方も多そうです。 喜び入る喜入町は、明治維新の偉人 小松帯刀(肝付尚五郎)・伊牟田尚平ゆかりの地です。肝付家御仮屋跡・肝付家歴代の墓地・伊牟田尚平誕生地&墓地、そして喜入町の史跡などを写真や地図でご案内します。 日本初の歴史戦国ポータルサイト
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