藤田伝五(藤田行政)は、明智光秀が最も信頼していた家臣の一人で、歴史的に需要な人物であるにも関わらず、殆どのことが分かっていないという謎の武将です。 藤田伝五(藤田行政)の功績もあまり分かっていませんが、明智光秀と筒井順慶の取り次ぎ役ををしていたことが判明しています。 京都洛西観音霊場(きょうとらくさいかんのんれいじょう)とは、桂川西岸から西山にかけての地域(旧乙訓郡及び葛野郡に相当)に置かれた観音 霊場。 三十三番までの札所と番外札所三ヶ所の計36寺院から構成される。洛西三十三観音霊場、また旧称の洛西観音霊場とも呼ばれる。 藤田伝五(藤田行政)は、明智光秀が最も信頼していた家臣の一人で、歴史的に需要な人物であるにも関わらず、殆どのことが分かっていないという謎の武将です。明智光秀には、明智五宿老という五人の重臣がいて、藤田伝五(藤田行政)はその中の一人です。史料の少ない藤田伝五(藤田行政)ですが、その生涯を見ていきます。藤田伝五(ふじた でんご)の名前は、藤田行政(ふじた ゆきまさ)だといい伝五、伝五郎は通称です。生年、出生地は不明で、両親の名前も分かっていません。明智家に仕えた時期も不明ですが、光秀の父・明智光綱(あけち みつつな)の頃から仕えているとも云われています。※光秀の父は諸説あります。このように不明点の多い藤田伝五(藤田行政)ですが、その記録は、大和国の戦国大名・筒井順慶(つつい じゅんけい)との関わりの中で散見されます。数少ない藤田伝五(藤田行政)の記録のを伝える筒井順慶とはどのような人物か、また伝五との関係について見ていきます。筒井順慶は、大和国(現・奈良県)の戦国大名でしたが、松永久秀の侵攻を受け、覇権を巡り争っていました。しかし松永久秀に織田信長がついたことで、筒井順慶は劣勢になります。また松永久秀は、将軍・足利義昭の直臣となったことで、大和国を「切り取り次第」、戦などで獲得した領地を好きにして良いというお墨付きをもらいます。そして松永久秀は大和国に攻め込み、大和筒井城を手にするものの、後に筒井順慶に奪還されるなど争いが続いていました。そのような中、元亀2年(1571年)、明智光秀の斡旋により筒井順慶は信長の家臣になり、光秀の仲介により松永久秀とも和睦します。 その後、筒井順慶は織田家で存在感を高め、光秀の与力という立場になります。身分としては光秀と同じで信長の家臣ですが、合戦などの時には光秀の指揮に従うという関係です。この時に、光秀と筒井順慶を取り次いだのが藤田伝五(藤田行政)という記録があり、その後も両者の取り次ぎ役として活躍したそうです。『多聞院日記』(たもんいんにっき)という史料に、藤田伝五(藤田行政)や筒井順慶の記録が書かれているそうです。『多聞院日記』とは、当時の僧侶達の日記ですが、信憑性は高く一級資料とされていて、史料の少ない藤田伝五(藤田行政)の足跡を伝えています。藤田伝五(藤田行政)は、筒井順慶の取り次ぎ役以外にも従事したことはあったと思いますが、記録がありません。次に、藤田伝五(藤田行政)の名前が記録に見えるのは、本能寺の変の直前の話です。『信長公記』という織田信長旧臣・太田牛一が記した信憑性の高い史料によると、本能寺の変の直前に、光秀は4人とも明智五宿老と呼ばれた明智光秀の腹心達です。明智五宿老のうち後に溝尾茂朝の名前も付け足して書かれた形跡はあるようです。いずれにせよ、藤田伝五(藤田行政)は、事前に打ち明けられる程の重臣であったことがわかります。また『蓮成院記録』(れんじょういん)という記録によると、藤田伝五(藤田行政)は、明智姓を与えられていたという記載もあるそうです。そして藤田伝五(藤田行政)は、天正10年6月2日、本能寺の変では明智光忠を大将とする第二陣の将として、溝尾茂朝らと共に4000名を率いて戦ったと云います。そして織田信長と織田信忠を自害に追い込み、光秀の謀反は成功します。藤田伝五(藤田行政)ら明智軍は、織田信長を亡き者にしたとはいえ、謀反を快く思わない信長の家臣団との戦が控えています。来たる戦に備え、信長の家臣で見方になってくれる大名の獲得に動きます。まず明智光秀が見方になってくれると期待したのは、細川藤孝という光秀と親交があり、光秀の娘の嫁ぎ先・細川家です。しかし細川藤孝は、光秀の再三の要請を断り、出家して家督を嫡男に譲って隠居してしまいます。 この細川家の他に、光秀が見方にと期待した人物がいたそうです。それが藤田伝五(藤田行政)が取り次ぎ役をしていた筒井順慶です。筒井順慶と光秀は親しい間柄であったと伝わっています。筒井順慶に本能寺の変後、見方になるよう説得する役目は、藤田伝五(藤田行政)が担っていたようです。『多聞院日記』によると、光秀の使者として藤田伝五(藤田行政)が筒井順慶の居城・郡山城に行ったものの筒井順慶に応じてもらえなかった旨が記されているそうです。また、その頃、筒井順慶が自害したとの噂が流れたり、情報が錯綜していたそうで、当時は混乱状態であったことも読み取れます。そのような中ですが、翌日に光秀は自ら洞ヶ峠まで出向いて、筒井順慶を待ったそうですが、筒井軍はあらわれなかったそうです。筒井順慶は光秀の与力ですので、合戦などでは光秀に従っていました。光秀は今回も従ってくれると期待したのでしょうか。しかし与力といっても、筒井順慶は信長の家臣ですので、謀反となれば光秀に従う必要はなく、筒井順慶が自身の意思で決められます。筒井順慶は、光秀と秀吉どちらに見方するか迷い、優柔不断な態度を取った末に秀吉に見方しました。 本能寺の変を知った羽柴秀吉は、信じられないようなスピードで中国地方から京都へ戻ってきます。あまりの速さに、本能寺の変の黒幕は実は秀吉で、事前に知っていたため、早く帰還できたのではないかという説もある位です。一方の藤田伝五(行政)のいる明智方は、細川藤孝と筒井順慶に見方になってもらえず、目論見が外れ明智軍の体制を整えきれていなかったとも云われています。そのような中、明智軍と羽柴軍は山崎の戦い(やまざきのたたかい)にて激突します。藤田伝五(藤田行政)は、明智軍の右翼隊を率いたそうですが敗れ、負傷しながらも淀まで退却したとする説もあります。一方の光秀は、本能寺の変以降、光秀の城になっていた勝龍寺城(しょうりゅうじじょう)に帰城し、勝龍寺城から坂本城へ向かう途中で落ち武者狩りに遭い亡くなったとする説が通説です。藤田伝五(行政)の最期は定かではありませんが、一説には勝龍寺城が落城したと聞き自害したとも云われています。また『蓮成院記録』によると、光秀が亡くなった時に自害して果てたと記されてもいて、真実は不明ですが、山崎の戦いの直後亡くなったとする所は一致しています。 きっと他にも重要な役目も担ったであろう藤田伝五(藤田行政)ですが、負け組の悲しい宿命でしょうか。藤田伝五(藤田行政)の生涯は殆ど不明で、僧侶など他人の残した記録などに頼っています。今後の新しい史料などの発見に期待したいですね。
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