気象庁の統計史上、東京都心で最早の真夏日は?お天気検定の答えをリアルタイムでお知らせしています。 本当に暑い日が続きます。 八王子で開業して50年近くになりますが、毎年、何日かは、夏に35度の暑い日もありましたが、精々、一日か二日程度で、連続して一週間も十日間も続くことは今までに経験したことがありません。
真夏日などの地点数を日別に表示します . 気象庁と欧州のは全然違うって程では・・・ いや29日比較だと大違いですね。 気象庁のは南側、欧州のは紀伊半島接近か・・ 気象庁は29日09時(JTC、UTC+9)、欧州のは29時12時(UTC)。 これは見物です … (東京証券取引所広報室PR写真) ★此処の掲示板は 『直近銘柄最新情報』 として直接、投資戦略銘柄を書き込んでおります。 投資戦略の参考銘柄としてお役に立てば幸いです。 気象庁:〒100-8122東京都千代田区大手町1-3-4 代表電話:03-3212-8341. english ... 統計期間; 日最低海面気圧 (hpa) 952.7 (1917/10/1) ... 気象庁:〒100-8122東京都千代田区大手町1-3-4 代表電話:03-3212-8341. 本当に暑い日が続きます。 八王子で開業して50年近くになりますが、毎年、何日かは、夏に35度の暑い日もありましたが、精々、一日か二日程度で、連続して一週間も十日間も続くことは今までに経験したことがありません。
その結果、小5の平均は、37.3日、中1は36.9日で,30日以下だった学校が、小中とも1割以上あり、8月31日より前に終わっていたのは、小5で54.0%、中1で58.1%もあったということです。 学校の先生たち …
東京における気象の記録 【お願い】 ここに掲載した資料は気象庁情報管理室のデータを基に気象庁天気相談所で作成しました。 引用する場合は「気象庁調べ」と明示ください。 気象庁天気相談所 更新履歴 1部 順位表 以下の項目については 気象庁hp
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気象庁の統計史上、東京都心で最早の真夏日は?【お天気検定】 答え 依田司 【お天気検定】 答え 依田司 更新日: 2020年6月18日
スポンサーリンク今日のお天気検定の問題と答えです。出題しているのは、気象予報士の依田司さんです。朝早くにありがとうございます。 気象庁の統計史上、東京都心で最早の真夏日は? 東京の最高気温は 昨日に比べてプラス3度 7月並みです全国的に晴れですが、北海道と沖縄のみ傘マークあり天気の崩れは土曜日からです奄美地方は昨日梅雨入り、沖縄は今日にも梅雨入りとなりそうです。東京は6月13日頃ということですこのあと間もなく、池上彰のニュース検定が放送されます別ページ、tankakanren
今夜の天気、流星群を見るためのポイントなど、お伝えします。 今夜は北海道は曇りや雨ですが、 そのほかは晴れる所が多く、流れ星、期待できそうです。 流星群の活動が極大になるのは「13日の午前3時頃」の予想。 サミー777タウン 無料会員専用スレ part66 100 :( ´∀`)ノ7777さん (ワッチョイ ce6d-TBbC):2017/01/01(日) 18:48:41.89 ID:1LOG3A0Y0.net 退会と ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~★特定ポストでゲキタクが競る手振りに木を入れるチャンスを狙っている蝶ネク姿の場立ちが昭和30年当時の寶玉堂主幹の写真です。(東京証券取引所広報室PR写真) ★此処の掲示板は 『直近銘柄最新情報』 として直接、投資戦略銘柄を書き込んでおります。 投資戦略の参考銘柄としてお役に立てば幸いです。『書き込み禁止の制限』を解除しましたが、宣伝広告、営利目的、その他、不適切な投稿記事は、独断と偏見でお断りすることなく 『全て削除』 させて頂きます。
気象庁の統計史上、東京都心で最早の真夏日は?|お天気検定 ; 実際にある神出鬼没の気象現象は【忍者何】?|お天気検定 ; 映画プリキュアで依田司が予報した天気は何模様?|お天気検定 ; 去年、関東甲信の梅雨明けは?|お天気検定 本当に暑い日が続きます。八王子で開業して50年近くになりますが、毎年、何日かは、夏に35度の暑い日もありましたが、精々、一日か二日程度で、連続して一週間も十日間も続くことは今までに経験したことがありません。西日本では大洪水も加わり、心からの同情を禁じ得ませんが、こちらは暑くて暑くて睡眠不足に成りそうです。ß平安時代の頃は、皆さんご存知のように、十二単(じゅうにひとえ)を着ているのが見られるように、一年を通して比較的暑い日が少なかったように思えます。その後の時代も、今年ほど異常に暑い夏は無かったと想像出来ます。なぜなら書物に残っていません。日本人は昔から几帳面ですから、異常な事が起これば、何事も常に書物に残しているからです。今年の夏のような暑さが続けば、必ず書いて残している筈です。それが無いと云う事は、このような異常気象は起きていなかったのでしょう。我が国だけでなく、今年は世界中で異常気象が起きているのだそうです。アメリカも中国も豪雨が続き、大洪水が発生、多くの家屋が被害に合っています。一方、ヨーロッパでは日照りが続いて、農作物に大きな被害が起きているそうです。地球温暖化が話題になっていますが、地球や火星のようないわゆる惑星は、何と言っても、親星である太陽の影響を常にモロに受けています。太陽の内部では超巨大な原子爆弾が常に爆発しているのです。内部の爆発がほんの少し活発化すれば、惑星に与える影響は我々が想像する以上に強烈であると想像出来ます。皆さんがよく耳にする太陽の黒点の増減、いわゆる核反応が少し増えたり減ったりしただけで、地球の気候が驚くほど寒くなったり暑くなったりするのです。今年の太陽は内部の動きがどのように変化しているのでしょうか。とても心配です。 私は30歳までは−あまり人には言いたくはないというか、隠しておきたいのですが−大変なヘビースモーカーでした。喫煙が許される二十歳になって、興味半分で直ぐにタバコを吸い始めました。当時は、有名なレストランでも、喫茶店でも、公共の場所でも、例えば病院や図書館でも、喫煙には甘かったので、あまり罪悪感は無かったのです。映画の中でも、超有名なスターが美味しそうに煙草を吸っていたものです。おまけに、大学に入学して直ぐに麻雀を覚えてしまい、悪友?たちとテツマン(徹夜で麻雀をする事)を週に一回はやるようになり、ムンムンひどいタバコの煙の中でチーポン!をやっていたのです。「ハイライト」「ピース」「ホープ」など日本の銘柄や「キャメル」「ケント」「マルボーロ」など洋物など、いろいろの銘柄の煙草をみんなでプカプカやっていたのです。開業してからも、患者さんから贈り物で煙草を頂きました。ところが、開業して一年も経たないある日、テレビ、新聞などが一斉に「煙草を吸っていると癌になる」とキャンペーンを始めたのです。『胃潰瘍、心臓病、脳溢血にも』と言い出し、煙草は悪の権化の如く世の中で言われ始めたのです。職業柄、薄々分かってはいたのですが、ニコチンの誘惑に負けて吸っていたのです…。しかし、子供にも患者さんにも示しがつかないと決断したその日から、喫煙をスッパリ辞めました。受付を長く務めて呉れていた江頭さんに「見事です、先生!」と言われるほど、それまでヘビースモーカーだった私はそれから現在までタバコの一本も口にしていません。禁煙を始めて一週間は今だから白状しますが、何回もタバコに手を出しそうになりましたが必死に我慢しました。喫煙を止めると同時に、以前に買った高級なライターも、勿論、マッチもタバコに点火する道具はみんな処分してしまったことが功を奏したのでしょうか。禁煙から一ヶ月程度すると、もうタバコに興味が薄れてきて、一年も経つと、全くタバコが頭から消えたのです。不思議なことに、却って傍(そば)でタバコを吸われると、早くその場から離れたくなったのです。喫煙時にタバコが無くなると、あんなにイライラしていたのがウソのようです。ただ、タバコを止めると、その分小遣いが貯り、気分的に余裕が出来ると、何かの本に書いてありましたがそんな事は有りませんでした。相変わらずピイピイしていましたが…。煙草をやめて45年、現在、健康でいられているので、やはり禁煙が健康に寄与したのは事実です。個人的な体験では、タバコを止めるコツはタバコの本数を少しずつ減らしていくのではなく、止めると決めたらその時から即座に一本も吸わないようにすることです。今は禁煙治療で効率的に喫煙をやめられるから、喫煙者には福音ですね。また喫煙は歯周病の重大なリスク因子でもあります。喫煙者諸君、頑張ってそろそろ禁煙しましょうか! 1月22日(月)、朝起きたら寒い寒い!天気予報では明日は大雪になるかも知れないと言っていましたが、晴れてもいましたので、大いた事は無いだろうとタカを括っていたのです。ところが、イヤな予感がしだしたお昼頃から、八王子は久しぶりにチラチラと白いものが舞いだしました。そして夕方には本格的な雪になってしまいました。天気予報大当たり!大袈裟ではなく、モタモタしていると、ウチに帰れなくなるような雰囲気の雪の降り方なので、ソソクサと皆で帰り支度を始めました。私と息子は車でヨチヨチと家路に着いたのです。前の車が見難いほど、東京では珍しい様な吹雪になってきたのには驚きです。何とか事故らずに、家に到着、ホッと一息入れた次第です。スタッフ皆の無事を確認して安心しました。何しろ雪の降り方が尋常ではないので、つい何度か窓を開けて外の様子を伺っていたのですが、益々降り方がひどくなってきたのです。結論としては、明日は車では絶対、通勤は出来ないと悟ったのです。以前でしたら、やけ酒でも飲んで寝てしまうのがオチでしたが、2年ほど前から禁酒をしているので大人しくテレビを観ていました。翌朝5時頃、起きて、窓から外を眺めると、そこは別世界。全て目に入った景色は真っ白でした。どうやらバスも運休のようです。休院しなければと思ったのですが、待ってくれる患者さんを思い、息子としばし相談。息子の運転で診療所を目指して、ソロリソロリと出かけることにしました。家内は本当に心配そうでした。道路と段差のある自宅の駐車場を何とか出てからは、凍った雪道を息子は慎重に運転、汗ばんだ手のひらでハンドルを握り、緊張が見え見えで気の毒です。ほとんど誰も歩いていない甲州街道、八王子を目指して雪で滑るガタガタ道を息子は上手く運転してくれました。途中の日野坂では何台かエンストして止まっている車の横をどうにか無事に上まで登って行くことが出来てホッ!!何とか事故も起こさず、八王子に到着したという訳です。痛いと云う患者さんも無事に診察することも出来ました。色々息子も緊張していましたが、ニコッとしていました。現在、何しろ、殆ど息子が治療しているのですから。勿論、衛生士、助手の女性陣の補助があってのことは言うまでもありません。私はと云うと,開業した当時からの古い馴染みの患者さんの治療を頑張って担当しています。患者さんもほとんどキャンセルがなく、本当にお疲れ様です。有難いことですね! 小さい頃は童話や伝記物、中高生の頃になってからは夏目漱石、森鴎外、島崎藤村、芥川龍之介などの、いわゆる日本の有名作家の小説を愛読していました。大学生になると、当時の流行作家の中間小説を読む程度で、自分の専門以外の本を読まなくなり、もっぱら麻雀や囲碁などの趣味にうつつを抜かしていたのです。ただ一貫して、漫画だけはたのしんでいました。世間では漫画、漫画と馬鹿にしますが、現在は、国内は勿論ですが、世界中で日本の漫画は大勢の人に読まれていて大人気です。中でも、私が大好きだったのは手塚治虫でした。手塚治虫の作品は漫画と云うより、私とっては大袈裟ですが、哲学書のように常々感じていたのです。難しい哲学書を見開いてもチンプンカンプンですが、手塚治虫の漫画は哲学書を彷彿(ほうふつ)させてくれます。手塚治虫の長編マンガ、『火の鳥』しかり。皆さん、『鉄腕アトム』のラストシーンを知っていますか?大団円、ハッピーエンドで終わっているわけではありません。悲劇的な最後です。テレビで子供向けに放送していましたし、悪者をギャフンと云わせていた英雄のアトムですから、アトムは不死身と思いきや、悲しい結末にシュンとしている子供達も多かったと思います。私が小さい頃は、マンガと言えば、『サザエさん』『のらくろ』などナンセンス漫画が主流でした。ひとマス、ひとマスの動きもありません。その内容はと云うと馬鹿馬鹿しくて、単純に笑えるものでした。その動きのない従来のマンガと比較して、手塚治虫の漫画は動きが顕著で、物語性が抜群でした。手塚漫画は子供が喜ぶマンガと言うより、大人向けの小説のようです。漫画の概念を変えてしまいました。勿論、ナンセンス漫画も面白いけれど、手塚漫画のような考えを深めさせてくれる作品も良いですね。今、7~80年前の手塚漫画のような世界になりつつある地球を、あの世からニタニタ笑いながら『どうだ!』と、手塚治虫が鼻高々に笑っているような気がします。人工知能なんていっぱい出てきたもんなぁ〜 小学生の頃から、絵を描くのが大好きでした。大人になったら絵描きになろうと本気で思っていたくらいですから。理由は、絵を描くこと自体が好きだったのも当然ですが、小学2年生になった年に、東京都主催の絵画コンクールで優秀な成績を納め、小学生の部で優勝してしまったからです。その時の絵は、私が大人になった時にも、卒業した小学校に展示されていました。と云うのは、大学生になった頃、小学校の近所に用事が出来たので、用事のついでに懐かしさも手伝って、学校に寄って見たのです。懐かしの玄関に入った正面の壁に、何か見た覚えのある絵が飾ってあったので、近づいてよくよく見てみると、何と、小学二年生の時に描いたあの絵だったのです。ビックリするやら、感激するやら、涙が出そうになった事を思い出します。今も絵が大好きで、色々な美術館や展覧会にはなるべく行くようにしています。若い頃は不遜にも、ピカソやダリの抽象画を見て、「下手くそな絵だナァ」と本気で思っていました。「俺ならモットましな絵が描けるワイ」と内心思っていたのです。ところが、その後、神田神保町の古本屋で、ピカソの若い頃、描いた画集を偶然見つけて、心の底からビックリしました。あまりにも素晴らしいデッサンや写実画を描いていたのがわかったのです。それまでは、ピカソの絵イコール奇妙な抽象画だと思っていたのですから。とても自分なんかには足下にも及ばない素晴らしい写実画が描かれていたのです。ピカソの抽象画は、画家としての揺るぎのない基礎技術と、他者に真似のできない独創の上で描かれており、本当に恥ずかしい思いをしました。同様に、ダリも若い頃、素晴らしい絵を描いています。それ以来、絵は趣味で描くことに決めました。何事も知ったかぶりは大恥をかくと、若い時に思い知らされ、それ以来、人様に何か話をする時や行動に出る時は、特にこれぞと云う時など、ひと息いれてから話すように慎重になりました。無知は罪ですなぁ〜 ハンプティ・ダンプティって、皆さんご存知ですか?ハンプティ・ダンプティは、マザー・グーズという童謡に登場する、卵の姿をしたキャラクターです。鏡の国のアリスにも登場しています。頭とお腹が出ていて、手足が妙に細い、言い換えれば外見は太ったお相撲さんだけど、手足が極端に貧弱な男の体型とすれば、一番なりたくない姿です。そのカッコの悪いのがハンプティ・ダンプティなのです。私も最近、怠けて、運動もせず、食べてばかりいるので、お腹が出てきたのです。言いたくないけど、ハンプティ・ダンプティに似てきたような気がするのです。若い頃、かなり運動をしていたので、身体は結構、締まっていました。自分としては、絶対にブタのように太ることは一生ないとタカをククッっていたのです。勿論、体全体が太ってきたのではなく、ドチラかと云うと、お腹周りだけに肉が、いや、脂が付いてきた訳ですから、余計にカッコが悪いのです。前にも書きましたが、認知症も心配で有酸素運動をすることにしたと書きましたが、正直に言うと、お腹周りのお肉も気になっていたのです。しかも、妙に手足が細くなってきてしまいました。出来るだけ身体を使うようにして、ハンプティ・ダンプティにならないようにしています。特に、太ももを太くするために、スクワットも開始した次第です。自分の机の横に「デブッた」醜いハンプティ・ダンプティの絵を飾って、こうはなたくないと思いつつ、食べ過ぎに注意いしながら、身体を無理しないで動かしています。絶対に、ハンプティ・ダンプティ化して寝たきりにはなりたくないです…私が高校生までは、おせち料理はお袋が作っていました。大晦日までに間に合うように、お袋が頑張って作っていた姿を思い出します。材料の買い出しは、オヤジがやっていました。その買い出しに、私が一番ついていってました。兄貴や弟は行きたがらず、もっぱら一緒に行ったのは私でした。私は築地のにぎやかな混み混みの雑踏の中を歩くのが、何となく、その後に来るお正月の初詣の整然とした人の流れと比較して、面白かったのです。オヤジも亡くなり、また世の中も変化して、元旦からお店は何処でも開いています。そしておせち料理も、デパートやコンビニで色々な種類、和風、洋風、中華風など、簡単に購入出来る時代になったのです。戦後、普段の食事はたいした物を食べていませんでいたが、大晦日だけはおせち料理に加えて、大トロ、アワビ、赤貝、ヒラメの刺身、すき焼き料理など大御馳走でした。アフリカなどの栄養失調の子供を見ると、いまの日本は天国のようですが、ほんの半世紀前は、正確に言えば、今から70年前は我が国も現在のアフリカと同じようでした。あの壊滅的な状態から復活させた日本人は、たいしたものですね。真面目で頑張り屋の日本国民に益々の幸有らん事を祈って、来年の戌年を向かえたいものです。よいお年をお迎えください! 私はご飯と云うと、白米がダイダイ大好きです。戦後暫くは、麦まぜご飯も口に入りませんでした。75歳以上の人は覚えていると思いますが、すいとん(ひえなどを練り潰した団子)を小さく丸めて、お米に似せた不味(まずい)食べ物をご飯代わりにして食べていました。見た目だけはお米のようでしたが、味や食感はトンデモナイまずいもので、全く白米とはほど遠いお米の代用品でした。暫くして、玄米を7分つきにして、それに麦を混ぜたご飯が出てきました。まだまだ白米ご飯は食べられなかったのです。白米が食べられるようになったのは、私が高校生になった頃だと記憶しています。本当に白米は美味しかった。それ以来、白米党になってしまいました。ところが、このごろテレビでも新聞でも白米の悪口ばかりが報道されています。雑穀米と云う身体に大変良い米が出て来たのです。雑穀米とは、玄米、粟(あわ)、きびなどを混ぜ合わせた米で、健康に大変良いのだそうで、それと比較すると、白米は健康にあまり良くないのだそうです。しかし、ウチでは私以外は皆、主食は白米も食べますが、よりパンや麺類、白米より雑穀米が好きなのです。私はホカホカの炊きたての白いご飯がいいのですが…。ところが、つい最近になって、雑穀米は消化を考えるとあまり薦められないという説も出てきたのです。一体、主食は何が良いのでしょうか?小生は誰が何と言おうと、ほくほくの白米です。おすしの握りに白米以外が考えられますか。このような馬鹿な事を言うと大笑いされそうですね。でも、この頃、外人さんも暖かい白米のご飯とみそ汁を美味しそうに食していますね。世界で一番美味しい主食は、我が国の白米に決まっています。白米は脂身の強い物やアッサリした物など、どんなオカズにも合いますから。白米、万歳!! 最近のお子さんは、部屋の中でゲーム遊びをしていて、外で遊ぶことを好みません。ウチに引きこもって、テレビゲームに夢中です。さて日本で、初めて家庭用ゲーム機が発売されたのは、1975年のテレビテニスで、アメリカ製の2万円程度だったそうです。その後の1977年に、任天堂がテレビゲームを我が国で初めて売り出し、そして、同社が次々とゲーム機を製作発売。現在もこの分野で、日本一のメーカーというより世界のゲームメーカーとして一二を争っているのです。今日は別にテレビゲームの話をしたいわけではありません。私の子供の頃のように、今の子供にも外で遊んだり、運動をしてほしいなぁと心から願って書いているのです。要は、子供達に屋外活動を元気よくやって欲しいのです。オリンピック競技の陸上や水泳などで、我が国の選手は、素晴らしい活躍を見せています。その選手達の大活躍に刺激されて、家から外に子供達が元気に飛び出していって欲しいと願っているのです。ただ昔と違い、家の外は危険があまりにも多すぎるので、私が子供の頃の親のように、子供が外で遊ぶのを、積極的に薦められないのでしょう。躊躇してしまうのも当然と云えば当然です。この車社会で、交通事故に遭遇するかも知れないし、子供を食い物にする悪い大人も多く存在するのも事実です。子供が安心して外で遊べるにはどうしたら良いのでしょうか?小生が思うのに、変な物に税金を使うよりは、子供の為にお金を使うべきだと常々心から思っているのです。子供に投資すれば、将来の日本に必ず大きな利益となって返って来るような気がしてならないのですが、いかかでしょうか?超特大の子供用の運動施設を日本全国各地に作ったり、運動道具を全国の小中学校に大量寄付して、子供達の身体を丈夫にする努力をすべきではないでしょうか。それこそ今、話題のAI(人工知能)にでも御宣託いただいて、テレビゲームより楽しい運動器具を発明してもらえば良いかもです。税金をそのような使い方をして文句を言う国民は殆どいないと思うのですが。外国に援助などする余裕など、今の日本にあるのでしょうか。 休院日である木曜日に、急に用事が出来て、朝早く八王子まで出てきました。用事を済ませて、本当に久しぶりに、通勤時間帯のJR中央線に国立まで乗ったのです。思えば40年以上むかし、大学を卒業後、大学院に進み、国立駅から御茶ノ水駅までJR中央線に乗って毎日通っていたのです。その電車の混みようと言ったら、七珍詰めで、大袈裟ではなく、毎日、拷問状態でした。行きも帰りも身動きが出来ない状態で、1時間近く乗っていなければならないのです。帰りは途中の三鷹駅辺で、ある程度は空いてはきますが、行きは目的の御茶ノ水駅までは大変混んでいました。大学院を卒業してから7年間、大学病院で治療したり、学生を教えたり、研究生活をしていましたが、開業をする事を決心しました。普通、大学を卒業した後、長く医局に在籍した場合は、親の後を継ぐような機会がない限り、大学の近くに開業して、大学から患者さんを紹介して貰って病院を経営していくわけです。しかし、小生は、開業してからも満員電車に乗るのがどうしてもイヤで、大学に行く反対方面の開業場所を探したのです。休みの日には家内と一緒に、立川,日野、八王子を主に、気に入った開業する場所を探していました。そして、一番気に入った八王子に決めたと云う訳です。当時は自家用車も無く、国立と八王子間を電車で通勤していました。電車内は、座席で寝る事が出来るほどガラガラ…。それに比べて、新宿東京方面は気の毒なくらい相変わらず超満員でした。八王子で開業して本当に良かった!車窓から見る景色は今とは違い、高層マンションなど一軒も無く、駅の周りも閑散としていたのです。久しぶりに乗った車窓から見る景色は、町全体が綺麗で、八王子、豊田、日野、立川沿線は45年前とは見違えるほど綺麗な街に変身していました。八王子はこれからもどんどん発展して素晴らしい街になることを期待しているのです。 中学生の頃、スイカとトマトは夏にしか食べられませんでした。なぜならば、夏にしか売っていなかったから、当然と云えば当然でした。そして野菜ではないけれど、お餅は冬の季節に雑煮にしたり、網に載せて焼いて食していました。食べ物が季節そのものを表していたのです。スイカやトマトが食卓に並んでくると、夏が来たと思うし、柿だと秋、ミカンだと、もうすぐ寒い冬の到来と反射的に感じていました。夏のスイカやトマト、冬に食べるお餅だけではなく、以前は、春夏秋冬の食べ物はその季節でハッキリしていたのです。今時、スイカでも、トマトでも、柿、ミカン、お餅でも一年中、出回っています。食べ物で季節感など感じるなんて無くなってしまったのです。現在の子供は、年がら年中、スイカでもミカンでも、季節関係無く目にしているので、全ての野菜や果物、食物が、冬でも夏でも日本中で育っていると思っているのでしょうか。スイカもトマトも夏野菜とは思っていないでしょう。外国からジャンジャン一年中、輸入しているんですからね。食べ物然り、服装然り、季節感がドンドン薄れてきました。小生が若い頃は、お酒にも季節感がありました。夏は冷えきったビール、冬は熱燗が通り相場でしたが、今は凍える寒い夜に冷たい生ビールを飲んだり、夏に熱燗を美味しそうに飲んでいる世の中です。何処のウチも冷暖房完備ですから。住み良い世の中になりましたが、フッと寂しく感じることがあります。昔、夏はパンツいっちょうでウチの中を走りまわり、冬はこたつに入って丸まっていたので、母に『子供は風の子、外で遊んでおいで!』と、お尻を叩かれていました。こたつなんか今は目にする事もありません。邪魔で、邪魔で、今時、使っているウチなんか、ほとんどないのではないかなぁ。でも、昔を懐かしんでいる自分は、昔か今か、ドチラに住みたいかと聞かれれば『今!』と即答せざる得ないのを、情けないと本当は思っています。お笑いください。 12月に入って急に寒さが厳しくなってきました。八王子でも朝方になると氷点下を示し、いよいよ冬の到来を感じます。しかし、敗戦直後の冬の寒さと比較すると大した寒さに感じません。家の中に入れば、その差は歴然で、現在の暖房の設備の素晴らしさは、70年以上前の同じ日本の12月とは思えません。逆に、却って夏は風通しが良くて今より快適だったのかも知れません。うそです!蝿や蚊がブンブンでした…。勿論、寒さをあまり感じないのは、暖房器具の充実だけでは無いことを認識しています。その身にしみる寒さを、いま感じない一番目の理由は、食べ物が素晴らしく良くなった事だと思うのです。我々が毎日、口にしている食べ物は、味も素晴らしいのは当然ですが、新鮮で栄養満天の素材です。敗戦後、数年間は食べ物が口に入れば良い、満腹になればそれで満足でした。大袈裟ではなく、お腹いっぱいになればそれでオッケイでした。栄養面から考えると、残念ですけど、冬の身体を保つにはカロリー不足だったのでしょう。また、着るもののお粗末さも今思い出すと、信じられないものでした。私は次男なので、当然兄貴のお下がりでしたが、その兄貴の洋服だって本当に安物でした。住んでいる家に至っては、我が家だけではなく、まわりの家もお粗末な建て方が多く、隙間だらけでしたので、冬は寒くて、寒くて…。今時の家は、隙間などはまったく無く、頑丈で見た目も素晴らしい作りになっています。そして、素晴らしいマンションが当たり前のように林立していますが、当時は、マンションなど見た事もありませんでした。約50年前に、霞ヶ関ビルが東京のど真ん中に建った時は、本当に驚かされました。この超高層ビルを見た時が、小生の戦後の終わりだったのです。東京タワーではなかったのです。1968年のことでした。38階建てで、我が国第一号の超高層ビルを見た時、敗戦の終わりを心の中で私は叫んだのです。もはや日本の戦後は終わった!万歳!! 小中学生の頃、動物性タンパク質の食べ物と云うと殆ど魚でした。トンカツがたまには食卓に上ることもありましたが、牛肉はまず食べませんでした。牛肉といえば、我が家ではすき焼き料理が1年に一度、出れば良いとこでした。しかし、そのすき焼き料理も牛肉は少なく、野菜たっぷりの今思えば悲しすぎるすき焼き料理…。さぞかし身体には良かったすき焼き料理だったと思います。ましてや、ステーキなど見たこともありませんでした。大人になってステーキを初めて食べて、こんな牛肉の食べ方があるのだとビックリしたのを思い出します。その反動と言えば何ですが、毎日と云うほど魚は食していたのです。理由は、オヤジが無類の魚好きであったことと築地の近くに住んでいたからです。築地は皆様ご存知のように、市場の中に大きな魚河岸があるのです。近くの魚屋さんが毎日、魚河岸から新鮮な魚貝や海藻類を仕入れてきて、ウチの近所に安く売りに来ていたのです。今から思えば、逆に贅沢だったのかも知れません。中トロ、大トロ、赤貝、青柳,アジ、わかめなど何でもござれ。朝はみそ汁の具や干物に、夜は刺身や焼き魚などなど…。夜、仕事を終えて帰って来たオヤジが、着物に着替えて日本酒を口にしながら刺身を美味しそうに食べていた姿を思い出します。その横で、お袋も嬉しそうにオヤジの満足そうな顔を見ていたのです。われわれ腕白な息子たちも、お相伴に預かっていたので、結構、新鮮で美味しい魚は小さい頃から食べていました。今時、牛肉や豚肉、鶏肉は、東京の何処でも簡単に手に入ります。却って、大トロや中トロ、ヒラメ,赤貝、アワビなどの新鮮で美味い刺身などはかなり高くなっています。あの時、オヤジの魚好きのお陰で、中学生の私も美味しい新鮮な刺身を口にしていました。今になって、特別に美味しい刺身を口にする機会などは、おやじとお袋の若い元気な顔を思い出して一寸ほろっとしています。五、六十年間で世の中は本当に変化するものだと驚くやら感心するやらしているのです。 戦争前は住んでいた所が東京の下町と云うこともあってか、父の休日には玩具やお菓子の買い物で銀座によく連れて行って貰いました。いま話題の築地にも正月の買い出しに出かけていました。戦前の東京を幼いながら眺めると、非常に発展して賑やかな街々でした。皆さんが想像しているより当時の日本は豊かだったような気がします。ところが、戦争に負けた後の東京は本当に惨めなものでした。疎開から帰ってきて見た東京…。戦前の東京を知っているので、その違いに、そしてあまりにも酷い惨状に子供ながら唖然としたものです。銀座一帯は無惨なほどの倒壊したビル群で、焼け野原になっていました。浮浪者も沢山いて、現在、テレビで見る焼けだされた中東の姿そのものです。戦争に負けるという事は、本当に大変なんだ!と心の底から感じたのは、当時の日本人全てだったでしょう。現在の60歳以上の人は、男女を問わず戦争アレルギー、戦争恐怖症になっている筈です。当時は今のように十分な食事も摂れず、勿論、お米も口に入らなかったのです。洋服も使い古しの惨めなものでした。甘いお菓子も皆無だったせいか、幸いと云うか、虫歯が有りません。自分の現在の仕事は、皮肉にも歯科医です。よもや、日本が現在のように繁栄するとは夢にも当時は思っていませんでした。勿論、戦争は悪です。しかし、何時何処から攻めてこられるかは分かりません。攻められてきた時は、常に防げるように準備が必要だと、あの戦争に負けた後の惨めさ、辛さを経験した一人として心から感じています。子供たちや孫たち、そして未来の子孫の為にも、政府の人達に『国の防御をしっかりするように』と心からお願いします。こんな素晴らしい我が国から戦争を仕掛けることはまず有り得ません。万が一、戦争を仕掛けられた時に、泣かないように準備を慢わりなく宜しく! この頃、テレビでも雑誌、新聞などでも、認知症の話題が多く報道されています。私が大学生の頃には全くと言っていいほど、認知症という言葉は耳にしませんでした。昔は例え、忘れっぽくなった人でも、『あの人はこの頃、ボケてきたんじゃないか?』と言っていたくらいがセキノヤマで、病気扱いにはしていませんでした。自分としては、この頃、物忘れが少し出てきて、人様の名前を忘れるようになってきたので、認知症と云う疾患が気になっているのです。少し昔までは、認知症になる前、65、6歳で多くの人は亡くなっていましたが、今は90歳以上の老人が当たり前です。もしかすると…と、自分も心配になったので、認知症にならない為の二か条を実践する事にしました。まず、第一は、本を読んだり日記を書いたりする事です。第二は、散歩のような有酸素運動運動を毎日する事だそうです。前者は、読んで字の如し、頭の体操をする事。後者は、身体の体操です。要するに、身体と頭を遊ばしていてはダメなのです。特に男性は、定年などで仕事をしなくなり、家の中で毎日ブラブラしていたり、外に出ないことで身体を動かさないと云うことは、認知症にまっしぐらに進んで行くのだそうです。自分としては認知症になりたくないので、仕事帰りに本屋に寄って面白そうな本を探したり、息子に買って貰ったウォーキングマシンで毎日30分間程度、早足で歩いて頑張っています。何処まで続けられるか怪しいものですが…。運動をしなくても、寝不足でも、何でも無理が効いた若い頃を懐かしく感じていると同時に、何とか、認知症にならないようにと頑張っている今日この頃です。 このところ、患者さんのキャンセルが悩みの種です。例えば、30分間のキャンセルが出ると、その間は、スタッフと2人で何もせずにいることになってしまいます。丁度、テレビで、銀座の有名なお寿司屋さんがキャンセルで大変困っている旨(むね)のインタビューを受けていました。『仕入れた高価なネタが無駄になってしまって‥.』『お客さんの席も空けてなければいけないし‥.』本当に大将さんは心から困っている様でした。私も患者さんのキャンセルには大変困っています。診察を受けたい患者さんは沢山いるのですが、キャンセルを受けたからと言って直ぐに空いた時間に都合良く入ってくれる患者さんはいません。多い時は、一日に2人もキャンセルが出る時があるので、寿司屋の大将さんのように悩んでしまいます。確かに歯の治療は、痛みが伴うので出来れば受けたくないのは分かりますが、診療する立場で話せば、虫歯や歯周病などはなってしまえば自然に治る事はないのですから、なるべく痛んだり苦しんだりなる前に治療してあげたいと思うのです。口の病気で悩んでいる人全員が、何でもよく噛めて、食事が楽しく出来るようにするのが歯医者冥利というものです。どうか皆さん、歯で悩んでいる人は怖がらずに相談して下さい。 私が若い頃は、父親も、周囲の男性たちも、自分が悪くなくても、女性には下手に出て、少しカチンとすることを言われても、やせ我慢していたものです。ところが、この頃は本当に男性の方がウジウジしていて、情けないことが多い。かえって、女性の方が気を使っている場面がよく見られます。第二次世界大戦でアメリカに負けてから、日本の男性諸君は完全に自信を失ってしまったようです。外交も常に相手の国に気を使って遠慮気味にお付き合いしているように見えてなりません。外務大臣は女性にすべきではないでしょうか。この国の男性が自信を取り戻すにはどうしたらいいのでしょうか?スポーツでは水泳、ゴルフ、サッカー、野球など世界的に大活躍、科学でもノーベル賞をはじめあらゆる方面での活躍がみられるのですから、日本の男性よ、自信を!! 5年程前になりますが、理由は定かではなかったのですが、300メートルも歩くと足腰が痛くなり、それ以上歩く事が困難になってきたのです。仕事に関しては、少し無理をしても痛くなる事はありませんでした。そのうち、家内と散歩するのも苦痛になってきたのです。仲間のMさんが、痛くても我慢して30分程度、毎日、早足で歩いていると半年も経つと、その痛みは自然に治ると忠告してくれました。そのままでは辛いからと云ってジッとしていると、ますます悪化するとの事でした。そんな上手い話がとも思いましたが、辛くても我慢して、その日から毎日、早足でMさんに言われた通り、30分歩いていると、本当に半年も経たないうちに足腰の痛みが薄らいでいき、1年間も経たないうちに、スッカリ痛みから解放されたのです。今では、1時間以上歩いても平気です。Mさん、本当に有り難う!運動する習慣は健康の為に、絶対に必要であると心から感じた次第です。 お袋は大正生まれ、23歳で私を生んで呉れています。19歳で兄貴を生んでいます。日本が軍国主義の真っ直中の昭和8年に結婚をして、4人の子供を無事に育て上げたのです。その間、大空襲に合いましたが、何とか苦労をしながらも戦後を生き抜いてきました。ところが、苦労したわりには何事にもオットリしていました。オヤジが国家公務員でしたので、経済的に特別恵まれていた訳でもないのに、常に全ての事に対しておおらかでした。私も若い時は、お袋のおおらかさに別に深くは考えなかったのですが、50歳を過ぎた頃から自分の生き方と比較したり、周りの人と比べると『あんなに大変な時代だったのに、随分おおらかにお袋が生きていた…』のが不思議に思うのです。キット、何か秘密があるに違いないと思うようになったのです。もし私が考えも及ばない理由があったら、これからの人生を生き抜いていく道具として、是非、参考にしたいと考えました。色々、足りない頭で考えを巡らしていると、一つ考えられる事にブチ当たったのです!それは、お袋の親が浄土真宗のお寺さんの住職夫婦だったという事でしょうか。『浄土真宗』に何か秘密が隠されているのではないかと咄嗟に思いまいた。親鸞が浄土宗の開祖法然に教えを受けた後に開いた『浄土真宗』とはどのような宗教なのか徹底的に専門書を読む事にしたのです。その前に、母方の祖父が真宗の僧侶でしたので、試しに、お経の本を一冊借りてみました。中身は、漢字だけの教典でした。読めなくても、書いてある内容は漢字の意味から何となく少しは理解出来ました。神田神保町の専門書店に行き、浄土真宗の内容を分かり易く解説している手引書買い込み、結構真剣に読みふけりました。そこで分かったのは、我が国では大変珍しい宗教である事でした。浄土真宗は、日本では唯一の他力本願が母体になっているのです。我国の宗教は浄土真宗を除いて全て自力宗教です。自力宗教と他力宗教どこが違うのでしょうか。簡単に説明すると、自力宗教は本人自身が死ぬほど努力して、例えば、滝に死ぬほど打たれる修業したり、一ヶ月も絶食したりして自分自身鍛え上げて自らが仏になる宗教の事です。一方、他力宗教は、いくら自ら努力しても自分は仏にはなることが出来ず、仏に仕えて仏に救って貰い、生きて行く宗教です。仏に仕えて生きて行く『浄土真宗』は、キリスト教と同じで、両方とも他力宗教です。『浄土真宗』と『キリスト教』は、その点で似た宗教なのです。他力宗教のいい所は、自分自身、謙虚に生きていく事が出来ると云うことではないでしょうか。自分なりの結論として、自ずとお袋のようにおおらかに生きて行けると云うわけではないでしょうか。 アジアで野球が一番強い国は何処なのか、三国、つまり、日本と台湾、韓国で野球大会が11月の17日から開幕しました。一回戦は、日本と韓国で、9回まで4対4の同点、手に汗握る接戦、延長戦に突入したのです。10回の表、韓国は日本のピッチャを打ち込んで三点をもぎ取ってしまい、勝負あったと小生は正直ガッカリしてしまいました。何と言っても、野球は、我が国は、アメリカと一二を争う世界でも一番強い野球王国だと信じていましたから。ところが、その10回裏に信じられない事が起きたのです。相手の韓国のピッチャーを打ち込んで4点を奪い、大逆転をして、サヨナラ勝ちをしてしまったのでした。こんなに嬉しい久しぶりの大感激はありません。さぞかし、翌日の新聞には華々しく大きな写真入りで載るものと期待していました。ところが、全然載っていなかったのでした。どうゆう事なのでしょうか。本当にガッカリ! 私が結婚したのが29歳の時、昭和43年の秋でした。子供が小さい頃、休みの日に遊びにつれて行ったのは多摩動物園か多摩テックでした。まだ、夫婦とも元気でしたし、薄給でした。おまけに家から近いという事もあったので、本当に多摩動物園、多摩テックさまさまでした。子供達も嬉しそうにチンパンジーやキリン、ワシなどを見てハシャイデいました。今でしたら、チビさんたちが連れて行けとねだるのは、デイズニーランドが通り相場ですが。しかし、デイズニーランドの開演が昭和58年の4月でしたので、まだこの有名なテーマパークは当時存在ていしなかったのです。子供達は、このデイズニーランドが出来た時は大きくなっていたので、友達同士で遊びに行っていました。という事は、我々夫婦は行きそびれてしまい、今もってデイズニーランドに一度も行ったことがありません。内心、ただの遊園地だと思っていましたので、殆ど、このテーマパークには正直言って興味がありませんでした。ところが、息子が言うには、「一度は行って見て来たほうがいいよ」と言われています。子供だけではなく、大人でもおおいに楽しめると云うのです。遊園地のイメージというと、つい、多摩テックを思い出してしまいます。しかし、全然違うのだそうです。現に、多摩テックは無くなってしまいました。一度、デイズニーランドに泊まりで見学と云うか楽しんでこようと夫婦で話あっているところです。何しろ、元気で長生きするコツは、色々な事に興味を持ち、ウチから外に出て行く癖をつけるのが大事だと息子にハッパをかけられています。そう言えば、同じ年の人と話していると、もうお互いに年だから、大人しくテレビでも見ているという事になってしまいます。われわれテレビの話というか話題が多いのです。何とかここから脱却して、息子の言うようにアチコチに出かけようと思っています。何と言っても、前向きの気持ちが大切だと思っている今日この頃です。 大学生の頃、鳴り物入りで初公開された立体映画を見て、ビックリ、大変な時代が来たものだと仰天していたのに、今回、VR(バーチャルリアリテイー)なるものを経験して、ただただ世の中の進歩に驚いている私です。VRは見ている画面が、立体感があるだけでは無く、自分の左右上下が立体、自分が実際そこの画面の中に入ってしまっているのです。従来の立体映画では前面だけが立体に見えるだけです。確かに、立体感があって凄いとは思いますが、矢張り現実味は今一です。ところが、今回のVRは、海底の中なら自分がその海底の中の魚や海藻、ヒトデなどと一緒に存在しているのです。立体映画の立体画面を見ているのでは無く、分かり易く云えば、自分がその画面の中に入ってしまっていると云うわけです。巨大な人食いザメが襲ってきた時には、正直、食われてしまうのかと心臓が止まりそうになりました。この切迫した感覚は立体映画では絶対に味合うことは不可能です。海の中に無理して潜らなくても,宇宙に危険を侵して行かなくても、このVRで見ていると、実際、自分が海中にいるし、広大な宇宙をロケットで実際に飛んでいるのです。それが、あまりの現実感なので身体が震えてきます。自分の経験で言うと、小学生の紙芝居からはじまり、中学生の時は、いわゆる、活動写真。映画の画面で、人でもクルマでも動いているだけでビックリしたものです。そして、立体映画を初めて見た時にはそれなりに大感激しました。ところが、今回のVRのあまりの現実感には立体映画どころではなく、ただただ驚き、言葉もありません。仕事で毎日のようにお世話になっている、友人の株式会社スタイグルの林和貴社長が、ソニーのVR発売と同時に、早速、買い込んできて、医局に素早くセットしてくれたお陰で、素晴らしい経験をスタッフ全員、早々と堪能出来ました。林社長、本当に有り難う!子供にはあまりの迫力なので、見るのは危険かも?熊本の大震災には、本当に我が国が地震国である事を、あらためて再確認させられました。東北、神戸の大地震。大津波や大火災の恐ろしさが癒えぬどころか、増大していると云うのに、今度は九州での大惨事です。阿蘇山よ、桜島よ、どうか静かに眠っていて下さい。この大地震に誘発されないように心から願っています。我が国日本は、自然に恵まれ、その上、四季があり、気候にも恵まれて、世界でも大変住み易い国の一つです。ただ、地震さえ起きなければと云う条件が付きますが。地震が起こる度に、こんなに科学が発達している日本で、何故、地震が予知出来ないのか常々に不思議に思っています。あれだけの大きな変動が広範囲の地下で起こるのですから、一月前くらいから何かの兆候の変化があるような気がしてならないのですが。例えば、一日前、いや、一時間前にでも予知出来れば、大幅に被害は小さくなると思うのは私だけではないでしょう。予知さえ出来れば火事は殆ど防げます。津波は防波堤を作っておけばと思いますし、地震に強い建物は当然として、その建てる場所は、崩れないようにするか、そのような場所は家の建築を許可しなければ済む事です。外国に援助するお金があるのなら、先ず、自分の国の災害地に援助して下さい。税金を災害地の皆様に使うなら国民は全員大賛成に決まっています。日本ほど真面目で優しい国民はいません。災害で苦しんでいても、それに耐えて頑張っている大勢の被害者のために、手を差し伸べるのが政府であり官僚の大切な仕事だと思います。今日も朝から被災地の熊本では雨が降っているそうです。何を言っても慰めにはならないのは分かっていますが、復興に頑張って下さい。些少で申し訳有りませんが、小生とすれば税金を払う以外なす事が出来ません。 中学生から高校生の頃、作者、和洋、内容などを問わず、何しろ色々な分野の本を沢山読んで、知識を頭に詰め込んでやろうと思いました。どのような方法で本を読むと、短い時間で沢山の本を読破出来るか、色々な方法を試していた時期がありました。昔から本を『斜め読み』すると、早いスピードで、文章を大量に読む事が出来ると言われています。自分としては、実験するつもりで、目を大きく見開いて、1ページ目の右上から全ページを睨み付けた後、普通、本を読む時のように、目線を真下に持っては行かずに、左斜めの下の方向に字を追っていったのです。目は見開いて、全体のページを見るようにしました。最初は、全体の字が、ぼやっとして、目も涙目、頭の中も混乱、文の内容もしっかりとは把握が出来ませんでした。ところが、十日ばかり我慢して必死に『斜め読み』を続けていると、驚く事にだんだんと内容も掴めるようになり、そして、何と言っても、普通の読み方よりも、4倍も5倍も早く読めるようになったのです。『やったぜ!』同じ読書時間で、人の何倍も本が読める優越感はたまりません。しかし、大学に入り、友達と麻雀や囲碁、そして、大学院に行き、研究で忙しく、開業してからは、有り難い事に、毎日多くの患者さんを診させていただき、言い訳にはなりますが、読書する時間がドンドン少なくなってしまいました。少なくなっただけでは無く、『斜め読み』の弊害が出てくるとは本当に驚いています。『斜め読み』をしていたので、内容を読み取らずに、ただ早く読む習慣が着いてしまい、熟読しなかったので、本来の『文』の面白みを捨ててしまったのです。結果、読書がつまらなくなってしまい、本を読まなくなってしまいました。おまけに、『斜め読み』した頃の本の内容を、殆ど忘れてしまっているのです。つくづく本はユックリと読み、よく内容を理解しながら先に進まなければ自分の身に付かないと云う事を思い知らされてしまいました。今となって、『斜め読み』していた時間が全く無駄だった事を心から後悔しています。『斜め読み』していたより前に、ジックリ読書していた宇宙の本とか、明治、大正の頃の文豪文学小説は、70歳を超えた今でも内容をシッカリ記憶しているのです。ボケ防止の為と、本を読む楽しさを思い出して、これからは一字一句を大切に読書したいと思っている今日この頃です。 私にとって、『お風呂』と言えば、子供の時分から、町の大衆風呂、いわゆる『銭湯』のことでした。小学生の頃は、外で散々遊んだ後に、いつも友達と一緒にお風呂屋さんへ一番風呂に入りに行っていたのです。綺麗だし、広いし、仲間の友達と一緒に行っていたので楽しくもあって、お風呂は大好きでした。公団住宅やプレハブ住宅が個人住宅として建設されるようになってきた昭和40年頃になると、何処のウチにも内風呂が当然のように付くようになり、昔の長屋は消失してしまい、お風呂屋さんも一緒に無くなったような状態になってしまいました。自分は、親の務めの関係で、一戸建ての官舎に入った中学生の頃には、内風呂が我が家にもありました。その頃から70歳を超えた現在まで、銭湯には一度も行っていません。ご多分に漏れず、我が家の内風呂は、小さなお風呂でしたので、銭湯で味わった開放感は、たまに旅行に行った時に入る温泉でしか経験しなくなりました。結婚してからも、小さな内風呂でしたので、風呂に入るということは、イコール仕事で汚れた身体を洗うための手段といった感じでした。首まで浸かり、手足を思い切り伸ばすスタイルで風呂に入ることは、普段は夢のまた夢になってしまい、本当に残念。疲れた身体を癒す手段としてのお風呂は、私としては、温泉にたまに行った時までの『おあずけ』となってしまったのです。ところが、狭い内風呂に慣れてしまったのか、温泉の大浴場に入っても、縮こまった体型で浸かると云う悲しい習慣が身に付いてしまい、情けない事この上ないのです。一方、ヨーロッパやアメリカではシャワーで身体を洗うのが、一般的です。お湯に肩まで浸かって入ると云う習慣はありません。ところが、この頃は、日本の影響を受けて、海外でも、檜の風呂が個人の家庭でも流行(はや)りだしたとのことです。やはり、全身浸かって入る風呂は、何とも言えない快感を感じてしまうのは、全世界共通なのかも知れません。また、何故『風呂』と云うのかと言いますと、昔は、お湯に浸かる事は無く、今で言うサウナ即ち『蒸気湯』だったそうです。温かい風にあたるイコール風呂となったのだそうです。江戸時代は浮世絵には風呂に入っている美人画が描かれているのですから、銭湯が存在していたのは事実です。風情のある『銭湯』が何時まで我が国に存在出来るのでしょうか? 先日、関東、東北地方で、大雨の被害が尋常ではありませんでした。台風18号は小さいので、大した被害は出ないものとタカを括(くく)っていたところ、皆さんご存知のように、まれに見るほどの大災害になってしまいました。原因は秋雨前線が停滞していたからです。運の悪いことに、小さい台風とはいえ、前線と重なってしまったために、このような大雨が一部地域に集中、結果、大変な被害になってしまいました。特に、鬼怒川上流近辺を中心に、関東地方の栃木、茨城、群馬県などで、30〜50ミリの大雨が二日間にわたり降り続いた為に、あちこちの川が危険水域を超えるほど増水してしまい、鬼怒川のように決壊、氾濫し、あのような大惨事になってしまったのです。鬼怒川と云えば、『鬼怒川温泉』。東京から近いと云う事もあって、若い頃から家族や友人と、何回も温泉に入りに、あるいは『日光』や『袋田の滝』などを観光巡りした後、ついでに立ち寄って、お湯に浸かっていた馴染みの景勝地でした。前々から、温泉の横を流れる清流を見ながら、こんなに綺麗な川を何で『鬼怒川』と云うのか不思議に思っていたのですが、今回の暴れ川をテレビで見ていてその理由が実感出来ました。江戸時代、あるいはそれ以上も前から、何回も大暴れしていた川であったのは間違いありませんね。読んで字のごとし、『鬼怒川』は、大変な暴れ川と云う事を忘れてしまった頃、濁流となって我々の前に突然『大鬼』として姿を表し、人間に致命傷を与える恐ろしい『大河』に変身するのでしょう。平成の我々からすれば、綺麗な清流、素晴らしい温泉地『鬼怒川』として、人気がありますが、江戸時代の人にすれば、鬼怒川は悪魔の様な川だと思っていたのかも知れません。あのような災害に会われた茨城県常総市の皆さんには何と慰めて良いか見つかる言葉もありません。あるご夫婦は、4年前に東北大震災で家が崩壊してしまい、やっと新しい家を建てたのに、また大雨による鬼怒川の氾濫で大被害にあってしまったそうです。報道によれば、仙台も大変のようで、災害国日本を再認識させられました。地震、津波、火山の活動化、そしてゲリラ豪雨など考えると、外国に援助するどころではありませんね。国による最大の援助を被災者にお願いします。その為の税金ではないのですか。 今年77歳、喜寿を迎えました。昔から、人生の先輩達は、人生なんか呆気(あっけ)ないもの、アッと言う間に年を取ってしまったと自重気味に言います。子供の時、一日がなかなか終わらず、年を取る事は膨大な時間がかかるのだと思っていました。『酒タバコ』何でもオーケーの大人に早くなりたいと思い、大人になればきつい仕事に追われ、早く仕事の無い還暦を向かえてノンビリしたいと思っていました。ところが、私など、いざ、『喜寿』になってみると、気がついたらあまりの早さで時が経ってしまい、還暦など通過したのも忘れてしまい、アッと言う間に喜寿になってしまった我が人生に愕然としてしまいます。こんなに時間が経たなければ、人生が終点に到達しないだろうと思っていた子供、青年の頃を思うと、77年なんか本当に短い時間だったと痛感しています。『光陰矢のごとし』を心の底から実感している今日この頃です。八王子で歯科医院を開業した43年前、昭和47年の暮れに石川歯科医院を始めたのです。当時、34歳。今から思うと、毎日が苦労の連続でした…。患者さん、スタッフ、そして家族に支えられて、どうにか現在に至っております。本当に、皆様に感謝しています(涙…)。その当時の自分の写真を見ると、若いというよりは、子供の様な風貌をしているのには、ビックリと云うより笑ってしまいます。今回、スタッフが『喜寿のお祝いの会』を催して呉れました。石川歯科医院に勤めて呉れた先輩の衛生士や助手、受付の女性陣の懐かしい顔ぶれに、久しぶりに会うことが出来て嬉しく思い、当時の様子も蘇ってきて涙が出そうになりました。これからも、息子を中心に若いスタッフに頑張って貰い、患者さんにいい治療を提供していければと、心から思っています。あらためて思うのですが、77年の時間の経つのが早いこと早いこと!!若い人たち、必死に、いまを生きてくださいね! 私にとって、『お風呂』と言えば、小さい時から、町の大衆風呂、いわゆる『銭湯』のことでした。小学生の頃は外で散々遊んだ後に、いつも、友達と一緒にお風呂屋さんへ一番風呂に入りに行っていたのです。綺麗だし、広いし、友達と一緒に行っていたので楽しくもあって、お風呂は大好きでした。公団住宅やプレハブ住宅が、個人住宅として建設されるようになってきた昭和40年頃になると、何処のウチにも内風呂が当然のように付くようになり、昔の長屋は消失してしまい、お風呂屋さんも一緒に殆ど無くなったような状態になってしまいました。自分は、親の務めの関係で、一戸建ての官舎に入った中学生の頃には、内風呂が我が家にもありました。その頃から70歳を超えた現在まで、銭湯には一度も行っていません。ご多分に漏れず、我が家の内風呂は、小さなお風呂でしたので、銭湯で味わった開放感は、たまに旅行に行った時に入る温泉でしか経験しなくなりました。結婚してからも、小さな内風呂でしたので、風呂に入るということは、イコール仕事で汚れた身体を洗うための手段といった感じでした。首まで浸かり、手足を思い切り伸ばすスタイルで風呂に入ることは、普段は夢のまた夢になってしまい、本当に残念。疲れた身体を癒す手段としてのお風呂は、私としては、温泉にたまに行った時までの『おあずけ』となってしまったのです。ところが、狭い内風呂に慣れてしまったのか、温泉の大浴場に入っても、縮こまった体型で浸かると云う悲しい習慣が身に付いてしまい、情けない事この上ないのです。一方、ヨーロッパやアメリカではシャワーで身体を洗うのが、一般的です。お湯に肩まで全身浸かって入るという習慣はありません。最近は、日本の影響を受けて、海外でも、檜の風呂が個人の家庭でも流行(はや)りだしたとのことです。やはり、全身浸かって入る風呂は、何とも言えない快感を感じてしまうのは、全世界共通なのかも知れません。ところで、何故『風呂』と云うのかと言いますと、昔は、お湯に浸かる事は無く、今で言うサウナ、即ち『蒸気湯』だったそうです。温かい風にあたるイコール風呂となったのだそうです。江戸時代は浮世絵には風呂に入っている美人画が描かれているのですから、銭湯が存在していたのは事実です。風情のある『銭湯』が、いつまで我が国に存在出来るのでしょうか? 少なくとも高校生の頃までは、オヤジを嫌っていました。なにせ、オヤジとの会話は、常に命令調であり、説教を聞いているような感じでした。オヤジも俺のことを嫌いなのだろうなと、単純に思っていました。ところが、大学に入った時に、腕時計をプレゼントしてくれたのです。当時としては、かなりの高級品でした。お袋がニコニコしながら、『お父さんからの入学祝いだよ』と言っていました。その時を境に、オヤジからの命令調の説教は、オヤジが亡くなるまで一度も聞いていません。私に接する態度が百八十度変わったのです。大学時代には『頑張っているか?』『辛い事があれば相談にのるぞ』等々。結婚した後にも『仕事は順調か?』とか『奥さんや、子供達は元気にやってるか?』など、優しい言葉を頻繁(ひんぱん)に懸けてくれました。家族揃って、実家に遊びに行った時は、大いに歓待してくれました。今から思うと、優しくなったオヤジが、本当のオヤジなんだと思っています。内心、子供に嫌がられるのを承知で、私たち子供を教育していたのでしょう。しかし、子供時代に、あまりに長く厳しくされていたので、それからも正直、何となく、オヤジとはシックリいかず、私はオヤジを敬遠していた様な気がします。お袋はいつも優しくて大好きでした。オヤジなんかいなくなれば良い!などと、罰当たりなことを思っていた時期も正直あったのです。今、オヤジの歳に自分がなってみて、オヤジの本心がよく理解されてきて、本当に心からオヤジに感謝しています。そして同時に、もっとオヤジと色々な話をしていれば良かったと心底後悔しています。お袋が子供に優しくしているのを見ていて、オヤジなりに子供に嫌われてもかまわないと憎まれ役を買って出て、社会に役立つ子供に育てて送り出す責任を担ったのでしょう。オヤジの厳しい態度を端で見ていても、お袋は黙っていて、決して子供に味方などしませんでした。オヤジに厳しくされなかったら、私は多分、社会のお荷物になっていたかも知れません。本当に子育ては難しいですね。テレビで野生の母熊が子供を上手に育てているのを見ていて、動物もたいしたものだと心から感動しました。今、オヤジに会って、ビールでも飲んで、子供の頃の懐かしい話を心いくまで話合いたいとつくづく思っています… 修順会のスタッフ3名が立て続けに結婚しました。歯科衛生士2名と歯科助手1名です。当然ですが、赤ちゃんが出来ると、育児休暇(イクキュウ)になります。三人とも、仕事は真面目でしっかりこなし、しかも優しく勉強熱心なので、患者さんからも大変に信頼されています。そして、石川歯科にとっても、大変頼りになるスタッフなのです。赤ちゃんが出来て、イクキュウなしに、辞められるのも困るし…、とは言って、この国ニッポンにとって、子供が減少するのは国の存亡に関わる大問題です。結婚した以上、可愛い赤ちゃんをどんどん生んで欲しい。あっちが立てばこっちが立たず、こっちが立てばあっちが立たず。勿論、スタッフの幸せな結婚は嬉しいです!さて、6月に入り、たいへん暑い日が続いています。このところ、気候の変動が激しく、いつになったら落ち着いた天気になるのでしょうか。凶悪な事件が続くのも気候のせいでしょうか。昔から、低気圧が近づくと、気持ちが沈んだり、片頭痛が起きたりすることはよく言われています。梅雨の季節ですから、当分、気分も憂鬱(ゆううつ)になり勝ち、運動したり、映画鑑賞したりして気分をハイになるようにもっていきましょう。いや、ビールでも飲みますか?今、国会で国防についてケンケンガクガク。安倍総理の主張は分かり易く言えば、自分の国は自分達で守るべきで、その際、アメリカなど、同じ民主国家と連携をとって行こうと言っているだけなのです。現在、世界中で自分の国を他人任せにしている国は、我が国だけです。アメリカ、イギリス、フランスは勿論、お隣の韓国、中国、そして第二次世界大戦の敗戦国のドイツやイタリーも当然のように軍隊があります。軍隊を所有している国が、日本に『軍隊を持つな!』などと主張しているのですから、ビックリ仰天です。先ず、自分の国の軍隊を無くしてから、軍隊廃止を言ったらどうでしょうか。日本には、自分の国土や国民を守るだけの軍隊は、是非、必要なのではないでしょうか。日本のような素晴らしい国が、他国を冒す事は、100%有りえないことです。大昔のカルタゴの例もあるのですから。素晴らしい当時の先進国、カルタゴが、重商主義に走り、抑止力である国防をおろそかにした故に、ローマに滅ばされているのです。日本近隣が騒がしくなっている昨今、我が国の行く末が、これから生きていく子供たちの為にも心配です。日本の国力に見合った防衛力、考えを同じくする国々との同盟による抑止力を、どうか持っていただきたい。 2015年の幕が明けたと思ったら、早くも、今日は3月に入りました。今年、未年もアッと言う間に過ぎてしまいそうです。石川歯科のスタッフも全員元気です。張り切って治療に励んでいくつもりです。今年はどのような一年になるのでしょうか?今日も、八王子は寒いけれど、朝から素晴らしい青空が広がっています。この青空のような一年になって欲しいと、願うのみです。去年から息子と歯科衛生士さん3人が、仕事を終えた後、勉強会を始めました。リスク因子の評価を主に、虫歯や歯周病の予防についての勉強に力を入れています。また、いま問題になっているインプラントの歯周病(インプラント周囲炎)も学んでいます。インプラント治療とは、皆さんご存知のように、今までは義歯でしか補うしか出来ない歯の欠損部に、チタンの人工歯を顎骨に埋入、自然の歯のように咬めるようになると云う画期的な治療方法です。しかし、治療が大変難しいのは勿論ですが、患者さんの理解と協力無くしては、治療の予後に重大な支障を招き兼ねません。患者さんに理解して頂くには、自分達が最大限の勉強をしなければならないと考えています。患者さんは歯を消失して、やむを得ず、入れ歯を入れているのですが、本当に義歯は不快感を伴うし、自分の歯のようにうまく咬むことが出来ません。それがインプラント治療によって、消失した自分の歯の代りに、見た目にも機能的にも蘇(よみがえ)るのですから信じられません。歯を無くした歯科医自身が、インプラント治療を受けて、満足しているくらい素晴らしい治療法なのです。インプラント治療を受けているドクターは、じつに大変多くいます。それなら、歯を失ったら全てインプラント治療をすればいいのではないかと思いますが、そうもいかないのです。『顎の骨はシッカリしているのか?ワーファリンのような血の止まりにくい薬を大量に飲んでいないか?適合のわるい補綴物が口の中にかなり入っているか?ブラッシングがシッカリされているか?歯周病に侵されていないか?歯ぎしりの癖が無いか?糖尿病がコントロールされているか?』など、様々なリスク因子のチェックをする必要があるのです。インプラント治療が良いからといって、ただ闇雲に行えば良いと云うものでもありません。適応症例を確認し、治療を終えた後のメインテナンスがシッカリとなされているかが、とても重要であると考えています。 年少の頃、童話や伝記物、中高生の頃になってからは名作と言われる漱石、藤村、鴎外、龍之介などの作品を愛読していました。大学生の頃は当時の流行作家ものを読む程度で、もっぱら麻雀、囲碁など趣味にウツツを抜かしていたのです。ただ、一貫して、マンガは楽しんでいました。マンガ、マンガと馬鹿にしますが、現在は、国内は勿論ですが、世界中で日本のマンガは大勢の人に見られていて、大人気です。ところで、手塚治虫の作品は、『マンガ』と云うより、私には、大袈裟ですが、『哲学書』のように常々感じていたのです。難しい哲学書を見開いてもチンプンカンプンですが、手塚治虫のマンガを読むと、まるで哲学的な課題に挑戦するような気にさせてくれます。手塚治虫の長編マンガ、『火の鳥』しかり、皆さん、『鉄腕アトム』のラストシーンを知っていますか?大団円、ハッピーエンドで終わっているわけではありません。悲劇的な最後です…。テレビ番組で子供向けに放送していましたし、悪者をギャフンと云わせていた英雄の鉄腕アトムですから、アトムは不死身と思いきや、悲しい結末にシュンとしている子供達も多かったと思います。手塚治虫登場前の、私がごく幼い頃は、マンガと言えば、『サザエさん』『のらくろ』などナンセンス・マンガが主流でした。ひとマス、ひとマスの動きもありません。その内容はと云うと、馬鹿馬鹿しくて、単純に笑えるものでした。その、動きの無い従来のマンガと比較して、手塚治虫のマンガは、躍動感があり、物語性が抜群でした。『手塚マンガ』は、子供が喜ぶマンガと言うより、大人向けの小説のようです。漫画の概念を変えてしまいました。勿論、『ナンセンス・マンガ』も面白いけれど、『手塚マンガ』のような思想性の高いのも良いですね。今、7~80年前の『手塚マンガ』のような世界になりつつある地球を、あの世からニタニタ笑いながら『どうだ!』と、鼻高々に彼は言っているような気がします。 近年、学校行事、観光、スポーツなど、親子で楽しんでいる姿をよく見かけます。自分の思い出としては、オヤジに遊んでもらったのは、戦争前に少し経験しただけです。ましてや、お袋に遊んでもらったことなど皆無です。幼児の頃までは、遊んでもらったことはあったでしょうが、記憶には残っていません。日本が戦争に突入していく寸前でしたので、国民全員が大変な緊張状態にあり、親子で旅行したり、一緒に遊んだりする雰囲気では無かったのも事実です。何かにつけ、『非国民』と直ぐ避難されてしまうからです。敗戦後も両親と遊んだことなど一回もありません。戦争に負けるというのは、本当につらいものなのだと、心の底から感じました。こう言う事を『後の祭り』と言うのでしょう。当時の日本人全員が、あらゆる面で、もう日本はおしまいだと思ったに違いありません。私の小学生時代は、私の家族もそうでしたが、ほんの一握りの御大尽は別にして、食べるだけで間違い無く精一杯だったのです。しかし、不思議な事に、私は思うのですが、少年の時も、青年に成長した時も、日本全体の雰囲気は、今よりおおらかだった様な気がするのです。国民全員が『おしまいだ…』と思っていなかったのかも知れません。『かも』ではなく『全然』思っていなかったのではないでしょうか。その証拠に、その後の我が国の発展を思えば一目瞭然です。いじけていたら大発展は有り得なかったでしょう。それも、国民全員で頑張ったからに違いありません。日本の男性はワンマンで、女性は虐げられていると言われていますが、実際は、そんなことはありません。男性だけで大発展なんか有り得無いからです。むしろ、女性の方が強いし、賢いに決まっています。尻を叩かれておだてられて、喜んで?男は張り切っていたのだと思います。それでいいのです。男女が協力したからこそ大成功したのです。国の発展は、一部の人に任せていては、『ダメよ、ダメダメ!!』 最近、ウナ丼が高級品になってしまいましたが、自分が小学生の頃は高級食品と云うよりは、庶民的な丼物でした。天丼の方がウナ丼よりも高かったと記憶しています。ところが、仲の良い先輩の話によると『君は安いウナギを食べていたんだよ』とのご託宣。続けて、『君は高級なウナギを食べたことがないな』ときたのです。本当の高級ウナギは柔らかくて、とげの様な骨も無く、味がよく、それはそれは美味しいものだとのこと。私の食べていたウナギは美味しいウナギだと思っていたのですが、何か先輩に馬鹿にされた気分になったのです。『そんなことを言うなら、その高級ウナギとやらをおごって下さいよ!』と私。『よし、おごってやろう!』と、売り言葉に買い言葉にあいなったのでした。約束した日曜日に東京銀座の老舗の鰻屋に招待を受けました。風格のある門構えで、如何にも老舗のお店でした。わざと他の物を食べずに、ウナ重だけを頂きましたが、確かに今まで食べたウナギより、悔しいけれど、ひと味もふた味も美味しく感じたのです。私は元来、お人好しなので、先輩の自慢げの顔を見上げながら『うまい!』と、つい本音をだしてしまったのです。先輩のその時の誇らしげな顔が今でも忘れることが出来ません。たかだか食べ物の話と言ってしまえば何ですが、本当に先輩に悔しい思いをした訳です。昨今の報道によると、そのニホンウナギが少なくなってきたそうです。マグロもダメ、ウナギもダメ…一体、われわれ魚の好きな国民はどうしたらよいのでしょうか。ところが、つい最近、嬉しい事に、近畿大学でマグロの養殖に成功したそうです。マグロの刺身や寿司はオッケー、オッケー!本当に嬉しいですね。ついでに、私の好きなウナギも、是非、是非、日本のどこかの大学で、養殖を成功させて下さい!宜しくお願いしたいものです。 駄菓子屋に次いで、小学生の頃の懐かしい思い出です。当時の娯楽といえば唯一、邦画を観ることでした。今と違い、町のアチコチに邦画を見せる小さな映画館がありました。出し物はだいたいチャンバラ物を中心に3本立てが主流でした。どのチャンバラ映画も『勧善懲悪』で、決まってハッピーエンドです。主役は切られようが、何されようが、決して死にません。子供でも映画のスジを把握していました。話は少しズレますが、私が成人した後に、希代の天才映画監督である黒澤明監督が侍物(さむらいもの)を製作、その作品を見た時、本当に驚きました。『七人の侍』や『用心棒』などを観賞した時です。今までのチャンバラモンは何だったのかと…あれは、漫画だったのか?黒澤作品以来、ほとんど全ての侍物はリアルな映画になってしまいました。しかし、私とすれば、小学生の頃見た漫画のような侍映画を思い出すのです。小学生当時流行(はや)っていた馬鹿馬鹿しいほどの『勧善懲悪』ベッタリの侍物が懐かしく思えるのです。あの当時の侍映画に出ていたスター、長谷川一夫、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、大河内伝次郎、木暮実千代、山田五十鈴さん達の顔が脳裏をかすめます。今と違い、昭和20年ごろは、1~2週間で映画の出し物がどんどん新しく変わります。ついている事に、当時住んでいた家は、小さな塀(へい)付きのウチだったのです。その塀に次週の映画の宣伝ポスターの貼り出しを映画館に頼まれていたのです。そして、その見返りとして、その映画の観覧券を一枚貰っていました。家族で私だけが映画を見に行っていたので、子供にも関わらず、私はたいへんな映画通になっていたのでした。映画館は常に大人や子供達で超満員でした。生半可でなく、通路も人人でぎっしりでした。観客は通路にも座って、塩せんべをバリバリ食べたり飴を舐めたりして手に汗を握って侍映画を見ていたのです。勿論、私もその中の一人でした。今の映画関係者がその超満員の光景を観れば、本当に心から羨ましく思うでしょう。自分としては、あの沢山のポスターを保存しておけば良かったと思っているのです。残念ですが一枚も有りません。今年、高倉健さんの訃報が大きく報じられました。高倉健さんや三船敏郎さんは、私が毎週のように近所の映画館で手に汗握って見ていたチャンバラ映画の後のスターです。まさか、テレビなるものが出現してきて、あんなに隆盛を誇っていた街の映画館が全部消えていくとは!!ただただ驚くのみです。 今回の衆議院選挙で安倍さんが圧勝したと言う事は、いわゆる『アベノミクス』が国民に支持され承認されたのでしょう。話は変わりますが、『アベノミクス』の話題から、何となく、今から25~6年前のバブル前夜の頃がフッと頭を過(よぎ)りました。丁度、私が八王子で歯科医院を開業して、17~8年経っていました。今とは違い、日本中が戦後、稀にみる好景気に突入していく前夜、マンションが駅前に林立しだし、郊外は一戸建て邸宅の新築ラッシュになりました。高速道路が日本中に建設され、その上を新車がビュンビュン。患者さんからは景気のいい話をこれでもかと言うほど聞かされました。『ジャパン アズ ナンバーワン』と、世界で一番の金持ち国家と持ち上げられたのもこの時でした。正直、私もこの日本がこのまま永久に、この天井知らずの景気を保てるのではないかと思いました。大学を卒業間近の4年生の娘には、オーバーでは無く、有名な大企業から就職の採用通知が、ダンボール3箱分が届いて、本当に景気が天井知らずだと実感したのです。それが、皆さんご存知の如く、バブル景気は泡とはじけ、景気は奈落の底へ。当時、私は大学の臨時教官でもあったので、都心に通勤していました。用事で東京駅に訪れた時には、本当に驚かされました。東京駅の階段に、高価な背広を着ているサラリーマンが大勢、疲れた様子で座っているのです。その異様な様子は、今でも忘れる事が出来ません…バブルがはじけた結果、無理な投資などの借金で首が回らなくなった紳士達の悲しい結末の姿であることは、確信を持って断言出来ます。今回の『アベノミクス』は、あのようなバブルと同じ様な結果にはなる事は絶対有り得ません。何故なら、あのバブルを経験している賢い日本人がよもや、同じ轍を踏むわけが無いからです。必ず、デフレ経済を脱却して、落ち着いた経済成長を取り戻すものと思います。選挙に圧勝した安倍総理、国民の期待に答えるように宜しくお願いします。2015年が素晴らしい年になるように心から願っています。 私が小学生の頃、実家の近くを流れていた隅田川の水は、泳げるほど綺麗でした。色々な魚、例えば、セイゴやボラ、ハゼなど、網ですくえるほど、沢山見ることも出来ました。学校から帰ってくると、近所の友達と隅田川へ魚釣りによく行っていました。しかし、ほんの数年後、私が中学生になった頃には、恐ろしいことに、隅田川は、ゴミがプカプカ浮いて、水は黒ずみ、魚影も無く、薄汚れた、汚い川に変身してしまいました。とうとう、臭いニオイもするようになってしまい、少し前まではパリのセーヌ川の様だった隅田川が、東京のド真ん中を流れるには相応(ふさわ)しくない川になってしまったのです…。その後、父親の仕事の関係で、豊島区大塚に引っ越してしまったので、隅田川から離れてしまい、いつしか隅田川の事は忘れてしまいました。たまに、テレビや新聞などで、隅田川の汚染している姿を嘆いている記事は出ていましたけれども…。隅田川が汚れてしまった最大の原因は、まれにみる戦後の高度成長期における工場からの垂れ流し排水が主な理由でした。幼い頃、友人と川遊びに出かけ、魚を釣りに行っていたあの綺麗な川を思い出すと、本当に泣けてきます。現在、私は多摩西部地区に住んでいます。先日、品川に用事があり、その際、隅田川に観光遊覧船が存在することを知り、懐かしく思い、船に乗ってみる事にしたのです。隅田川を間近で見るのは、おおよそ50年振りです。品川埠頭から船に乗ってみて、本当に驚きました。あの汚れきっていた隅田川が信じられないほど綺麗に蘇っていたのです。私が子供の頃の隅田川とは少し違いますが、頬を横切る微風は海のニオイです。あの汚れて臭いニオイの川は消えていました。魚の姿は確認出来ませんでしたが、近い将来に蘇る事は間違い無さそうです。隅田川で一番、変わってしまった事と言えば、高層マンションが林立している河岸でした。本当に日本は凄い実力を持ち、あらゆる面で素晴らしい国ですね。この素晴らしい国を子孫に残したいと思うし、そうするのが、我々大人の義務ではないでしょうか。 今週の12月3日水曜日の午後、無事、はやぶさ2号(H2Aロケット)が種子島宇宙センターから打ち上げられ、見事に軌道に乗り、さらに太陽電池パネルの展開、サンプラホーンの伸展、探査機の3軸姿勢制御機能など、重要なシーケンスが正常に行われたことが確認されました。天候が良くなかったこともあって、延び延びになっていたロケットの打ち上げ。全国民をやきもきさせていましたが、見事に大空に向かって飛び立って行き、3時過ぎに打ち上げ成功の発表がありました。このロケットの打ち上げ、時間は1秒の狂いも許されないのだそうです。1秒ですよ!!小生の単細胞の頭では、ただただ感心するのみです。30億キロ彼方(かなた)の小惑星を目指して数年かけて飛んでいくのだそうです。バッチリ、その小さな目標の小惑星に到着するのは間違い無いそうです。凄いと言う以外言葉が見つかりません。この素晴らしい技術、本当に天才的な科学者が大勢、我が国には存在するのですね。私とすれば、この事実を誇りに思うより、心からビックリするのみです。私の記憶が正しければ、日本のロケット産業は、糸川博士がおもちゃのような小さいロケットを飛ばすことから始まったのだそうです。世界中、ロケットの造り方など教えて呉れる国など、当然の事ですが、存在するはずもありません。それが今では日本独特の技術によって、世界のどの国にも真似の出来ない素晴らしいロケットを作り出してしまったのです。このH2Aロケット打ち上げの成功を、世界中が掛け値無しでさぞかし驚いていることでしょう。此処のところ、身体のことを考えて、アルコールを控えていたのですが、今日は仕事を終えた後に大好きな日本酒で、家族と乾杯しようと思っています。 およそ70年も前になりますが、私が小学生の頃は当たり前の話ですが、コンビニなる便利なものは存在していません。今日、8月1日(金曜日)から三日間は、八王子の夏祭りです。戦争時の空襲にも驚きましたが、空襲時、自分があまりにも幼かったと云う事もあったので、戦争自体、夢を見ている様な、見ていないような現実味のかなり薄い経験でもあったのです。B型肝炎ウイルスに感染している人は、世界でおおよそ何人かご存知ですか?この平成の世の中、本当に我が国は全国どこを訪ねても、きれいな町並み、しかも清潔です。長く日本に住んでいる異国人。脳梗塞や心筋梗塞、あるいは認知症と云った血液循環器系の大病と慢性歯周病との関わりが、ここ数年、我が国だけではなく世界的に注目されています。私が小学生の頃、食卓に出てきた旬(しゅん)の鯵(あじ)や秋刀魚(さんま)などの魚は今のそれより明らかに大きかったのです。ブラジル開催のサッカーワールドカップ、惜しくも日本チームは予選で敗退してしまいました…。みなさん、塊炭飴を知っていますか?開業して半年ほど経ったでしょうか、大学の医局生活と全く違う毎日でしたので、緊張もしていたし、他の事など考える余裕など無かったので、今から思えば、色々な面で隙(すき)だらけだったのでしょう。大学生の頃、オヤジの勤めの関係で、古い家でしたが、かなり大きな官舎に住んでいたことがありました。つい先日、医局の後輩である教授が退職しました。今回は、ちょっと前の、昨年に書いたブログを報告します。題名『まさか庭に逃がしたばかりのガマガエルがこんなに早く死んでしまうとは…』予想だにしませんでしたが、ブログの院長の独り言401『ガマちゃんが絶滅危惧種なんて』で述べているように、昨年8月半ばには、ガマちゃんは元気に庭を這い回っていました。明けまして御目出度うございます。石川歯科医院の歯科医師の山森翔太です。石川歯科医院の歯科医師の山森翔太です。とある休日の朝、いつもの癖で、小生、寝ぼけ眼(まなこ)で、テレビのスイッチを入れた途端、いきなり画面一杯に笑顔!笑顔!が飛び込んできたのです。石川歯科医院の歯科医師の山森翔太です。一度しかない人生、『元気で長寿!』が理想です。今年の夏は、暑いだけではなく、湿度の高いのには本当に身体が参りました…。職場には、息子の車に便乗して通勤しています。7月20日(土)、スタッフの有志とスタイグル社の林さんが集(つど)って、八王子八日町のエルシーのビールホールへ行ってきました。友人が自宅を新築したので、是非、見に来てくれと、お誘いがかかりました。受付の嶋田さんと歯科衛生士の川添さんが、6月29日をもって退職しました。30年以上前から、ウチの歯科に一家で診療に来て頂いているIさん。最近、親が子供を殺(あや)める事件が、後を絶ちません。遅まきながら、富士山が世界遺産に登録されました。『日照りに不作無し』と言われるようになってから、随分、年月が経っています。6月は、私の生まれた月です。医院の屋上に、大地震に備えて野菜菜園でも作ろうかと思っています。石川歯科医院の歯科医師の山森翔太です。私から見ると、今時の小学生は、オマセの子供が多いのでビックリさせられます。小学生の頃まで、テレビが無かったので、画像で楽しむ娯楽と言えば映画観賞だけでした。大好きな宇宙のことを考えていると、夢があって本当に楽しいです。小学生の頃から、自分はスポーツ大好き少年でした。長嶋茂雄氏(以下、敬称略)に国民栄誉賞を授与したニュースが、連日、新聞やテレビニュースで大きく取り上げられています。ゴールデンウィークの長い休みも終わりました。週休二日制になって、もう何年になるのでしょうか?大学2年の夏休み、友人5人とサザエを取りに、千葉の富浦海岸に行った時の話です。私は小学生の頃から、視力が良いことを自慢にしていました。皆さん『サッパ』と云う海水魚をご存知ですか。安倍総理と黒田日銀総裁のコンビによる金融政策の効果が出てきて、もしかすると、ミニバブルに突入するかも知れません。テレビショッピングを見ていて、いつも疑問に思う事があります。自分が小中学生の頃、初夏になると毎日の朝食に、大きなトマトが出てきました。私の大学時代の友人からの紹介で来院された石田幸久(石田虹雲)さんから、『虹のおくりもの』と云う氏自身が執筆した、虹の本を頂きました。今年は、桜の満開がいつもの年より10日ばかり早く、4月にはもう散り始めています。昼食の時に、最低1週間に1回は、石川歯科医院の目の前にあるおそば屋さん『やぶそば』に行きます。安倍晋三総理の推薦通りに、日銀総裁が黒田東彦氏になりました。戦争に負けたことにより、食べ物では、本当に辛い思いをしました…。時はまだ、平仮名の存在し無かった奈良時代。 春の苑 紅にほふ桃の花 下照る道に 出で立つ娘子春の庭が一面、真っ赤に照り輝いている。なんと、幻想的で美しい光景でしょう。火曜日に久しぶりに、近くの蕎麦屋さんのカレーを食べました。私が八王子で歯科医院を開業した40年前、昭和50年前後の八王子市八日町商店街は人通りも多く、大変な活気がありました。私が中学生の頃(1950年頃)は、東京都内の交通機関として、都電が大いに幅を利かせていました。ゲーテ(独)、エリオット(英)、ホイットマン(アメリカ)、高村光太郎(日本)、中原中也(日本)、萩原朔太郎(日本)、李白(中)、杜甫(中)、そして最近、詩集を発表した谷川俊太郎(日本)など、素晴らしい詩を歌った人は古今東西、大勢います。 山のあなたの空遠く 『幸いは、遠くに探しに行っても決して見付ける事は出来ませんよ。今の自分が幸せだと気がつかなければ』と言っています。ここ数年、小生、早朝の午前4時前には眼が醒めてしまいます。NHKの朝の連続テレビ小説(連ドラ)を、毎朝、何となく見るようになったのは、私が大学院に入り、アルバイトとしてNHK放送センターの歯科診療所に勤務した縁で始まります。最近はダンプカーを女性が運転しています。先日2月24日(日)に、親父の23回忌、お袋の17回忌の法要を、四人兄弟で営みました。昨年の10/10に出版された私達が執筆した「こうすれば防げるインプラント周囲炎」が、好評につき初版がほとんど売り切れてしまったため、重版されました。2階待合室の患者さんへ、ほんの少しの癒しのために飼育していた熱帯魚が、悲しいかな、死んでしまいました…。人生で一回だけ、パーマを掛けた経験があります。ロシア北部に、直径17メートルの隕石が落下して話題になっています。小学生の頃、自分は足が遅いと思っていたのです。2月11日(建国記念日)、日本口腔インプラント学会が新宿の京王プラザホテルで開催されました。小学校低学年の頃まで、もんじゃ焼きの本場である東京下町に、私は住んでいました。石川歯科医院の歯科医師の山森翔太です。私が大学生の頃、邦画と言えば、石原裕次郎や小林旭主演の日活映画が、大人気をはくしていました。山中伸弥博士はiPS細胞を作り出して、昨年のノーベル生理学•医学賞を授与された京都大学の教授です。歯科領域においても、iPS細胞に期待大と云うところです。私が若い頃、情報を得るには、新聞、ラジオ、テレビを必要としました。若い頃は、外出先で電話をかける時は公衆電話でした。安倍晋三総理大臣が、デフレ脱却を目指して頑張っています。幸い、多くの方々に読んで頂いている、父(院長)のブログを編集して、本として出版しました!新年おめでとうございます。久しぶりのブログ更新になります、石川高行です。誰でも、仕事や旅行で、飛行機に乗る機会が増えてきましたね。若い頃、仕事上のヘマをやらかして、医局の先輩に『お前は本当に単細胞だな!』と言われることがありました。小生、なるべく早急に、いま話題の新装した『東京駅』に行き、そのレトロの建築を事細かに観察しようと思っていたのです。ウチの診療所に、学生アルバイトとして手伝いに来ている目のクリッとした可愛い阿部伊吹さん。石川歯科医院の花壇は、美しい花々を植えて、秋を演出しています。現在の千円札に印刷されている肖像画は野口英世のものです。わが歯科医院の近くに、新潟魚沼の名物を出すそば屋さんを見付けました。当院の山森翔太先生と著した『こうすれば防げるインプラント周囲炎』が、出版元のクインテッセンス出版やAmazonなどの書店で売り切れてしまいました。季節は収穫の秋。先日、丁度、学校帰りの小学生の一団に遭遇したのです。昨日の9/30(日)午後2時から4時まで行ったインプラント説明会。しばらく振りですが、インプラント説明会を開催します。石川歯科医院の歯科医師の山森翔太です。山森翔太先生と私(石川高行)が執筆した本が、歯科関連専門出版会社の最大手であるクインテッセンス出版株式会社より売り出されました。40年前、喫煙を止めたのですが、アルコールは最近まで、毎日、晩酌していました。ある日の休日。お恥ずかしい話ですが、小生、字を書く事が大変苦手なのです。オリンピックと云うと思い出すのは、50年前の東京オリンピックです。『大食い競争』が、色々と趣向を変えてはテレビ画面に出てきます。歯科治療の代名詞みたいな物…。いよいよ来週から(7/27金曜日)、ロンドンオリンピックが始まります。60年以上前、私が13~14歳の中学生だった昭和25~6年頃は、今では信じられないほどに東京湾の水が綺麗でした。若い頃から塩せんべいが大好物でした。都内に用事がある時は、電車とバスをよく利用します。大腸ポリープ切除後、『2週間は食事に注意するように!』と病院で注意を受けました。先月初旬、定期的に行なっている血液採取を、息子にして貰いました。気持ちのよい季節を迎えました。前夜の天気予報では、5月21日月曜日の東京は、曇りとの事。当院のスタッフ(受付)である山口美穂さんが撮影した金環日食の写真です。4月21日(土)、仕事が終わった後、石川歯科医院開業40周年のお祝いをしました。患者のIさんから、およそ100年前のドイツ製注射器を頂きました。当院の若きドクター 山森翔太君のご両親から、新築祝いとして、和紙を漉(す)き込んで作られた『赤富士』を頂きました。最近、大雨の日が多いので空気が澄んでいるのか、夜、美しい星空を眺めることが出来きます。桜花が咲く季節、私が住んでいる国立市は、最も賑わいます。去年の8月末、長年の間、住み慣れた我が家を壊して、新たに建てていた新居がやっと完成しました。最近、少し暖かくなったと思うと、翌日はコート無しで外に出たくない程に寒くなったり、また、その翌日にはポカポカ陽気です。日本人は、外国語を喋るのが苦手です。定期的に行なっている血液検査の結果が思(おも)わしくなかったので、気分的に落ち込んでしまい、ブログを書く気にならず、失礼しました。八王子市で歯科医院を開業した昭和47年。患者さんのKさん、展覧会の招待券を、いろいろプレゼントしてくれます。今朝、テレビ番組で、麻生太郎元総理の元気な姿を、久し振りに拝見しました。思い出してみると、昭和60年から平成元年頃までが、バブルの絶頂期だったと思います。目の話をしたいと思います。小学校高学年から中学校を卒業するまで、私は江戸川乱歩の少年向け探偵小説『怪人二十面相』にゾッコンでした。以前、レストランに入って、ハンバーク料理を自ら注文することは全くありませんでした。先日、珍しく首都圏に雪が降りました。当院の歯科衛生士2名(有若さんと蓮実さん)が、去年の春以来、煎茶の作法を阿部先生から教えて頂いています。歴史的な円高です。小学校に入った時から現在まで、『我が国は貿易立国である』と、耳にタコが出来るほど、学校でも、新聞でも、ラジオでも、テレビでも、あらゆるところで何度も聞かされています。明けまして、おめでとうございます。寒さが本格的に厳しくなってきました。口の中には、ざっと数千億もの細菌が存在します。ほとんどの企業では、今年の暮れのボーナスはもう支給されたのでしょうか。いよいよ今年もあと半月で、平成24年に突入します。世界的に大変な不景気になってしまいました。先日、生まれて初めてのアルコール抜きの忘年会を経験しました。忘年会は、一年間の締め括りとして、我が国では欠かせない年中行事です。NHKで、司馬遼太郎氏原作の『坂の上の雲』のドラマ化が、3年掛かりで、放送されています。もう、いい歳をしているので、2~3ヶ月に一回、息子に頼んで血液採取して貰い、健康状態をチェックしています。われわれの地球から見て、一番大きく見える恒星は、太陽です。昔の事はよく覚えているのに、最近の出来事は、自分でも呆れるほどに、直ぐ忘れてしまいます…。年寄りは朝、起きるのが早いと言われます。バブルが弾けてから20年以上経つのに、我が国は一向に景気が良くなりません。(以下、要約引用)何でこのエッセイが頭に突然浮かんできたのか、自分でも不思議なのです。大学院を卒業して、めでたく文部教官(助手)になった年に、歯学部を卒業して専攻生として保存科に入局してきた沖縄出身のK君。この頃の若い男性は、女性に負けないほどにオシャレです。歯科医院開業から約40年間、歯の治療やクリーニングで通って頂いている患者さんは、私と同じ年代なので、治療に来ても、歯の治療もソッチ除けに、衰えてきた身体の話になってしまいます。先日、ゴルフが終わった後に、大学時代の友人4人と一杯飲みながら、『俺たち、長生きしたお陰で、随分、色々な料理を楽しんできたけど、どの国の料理が一番、美味しかった?』となったのです。あらゆるマスコミ媒体で、健康関連グッツあるいは健康食などが、沢山紹介されています。一年振りのクラス会で、『一年前より太ったんじゃないのか?』と指摘されてしまいました。歯周病で治療中の患者さんと歯の大切さについて雑談中。先日、あるテレビ番組を見ていると、綺麗な女性タレントが、実は男性だと分かって、ビックリしました。先日、自分が教員をしていた、大学の研究室(歯内療法)の勉強会に行ってきました。我が国は『小国』だと、日本国民自身が思っています。隅田川に遊覧船が運航されているのは知っていましたが、まさか、その遊覧船で浅草に行けるとは思っていませんでした。連休を利用して、家族でお墓参りに出掛ける事にしました。今、書斎の机の上に置いてある、愛用のWindows PC(通称;パソコン)に、ブログ『院長の独り言』を打ち込んでいます。もう60年以上前の話です。以前のブログ(院長の独り言264 ; 植物の生命の尽きる時)に、自宅の鉢植えのシクラメンを観察していて、植物の水を吸い取る力は驚嘆すべきものがあると書きました。医科歯科大学歯学部2年生の時、内科の授業で、老化についての講義を受けました。 術前 術後(すべてインプラントです)物事を一つの方向からのみ考察して、別に疑問を持たないでいる場合が、意外と多いものです。とうとう、40年間、住んでいた我が家のアチコチに、ガタがきてしまいました…。宇宙は無限に大きく、宇宙の事を考えると『人間の存在は余りにも小さい…』と言う人がいます。小生の一番の趣味は、満天の星が煌(きら)めく宇宙を観察する事です。ほとんど毎日、我が家の朝食には、みそ汁と納豆が付きます。お久しぶりです。老人の過った運転による交通事故が、テレビや新聞に良く載ります。毎夏の事ですが、高校球児が甲子園で、熱戦を繰り広げています。7月11日(木)から1週間、お盆休みを兼ねて夏休みを取りました。本日8月15日は、我が祖国 日本がアメリカに降伏(実際は国体護持、つまり「天皇陛下を中心とした秩序の維持」を条件に提示した有条件降伏)した日です。東日本大震災による大津波で、無残にも消滅してしまった陸前高田の銘酒『酔仙』は、岩手を代表する銘酒として、その名を轟かせていました。今回は、当院3階の待合室で飼っている、小さな観賞魚のお話です。参照写真;カエルウオの仲間今から500年前の室町時代末期、政治的にも、経済的にも、日本国中が末期症状を呈し、人心は乱れに乱れ、結果、必然的に戦国時代に突入して行ったのは皆さんご存知の通りです。私の人生で初めて、救急車のお世話になった話を、3月20日のブログ『院長の独り言 204 ; 人生で初めて、救急車で運ばれました…』で書きました。毎年恒例のホタル狩りをしに、高尾山の麓にある割烹『うかい竹亭』へ、スタッフ一同で出掛けて来ました。あの妙な軌道を描いた台風6号の通過を境に、急に過ごし易い日々が続いています。自宅2階の廊下に、白い蘭(ラン)と桃色のシクラメン、青々と葉の生い茂ったセントポーリア(真冬は深紅)の鉢植えが置いてあります。ネットサーフィンをしていたら、今年は日本各地で、蝉(せみ)が全く鳴かないと載っていました。今週の日曜日に、久し振りに、家族で『銀ブラ』と洒落込みました。世界一、ノッポの電波塔が話題になっています。7月20日(水曜日)の朝。まさかのなでしこジャパン、世界一!!『日照りに不作なし』とよく言われている事に、一寸、違和感を感じますが、本当の事です。先日、書いたブログのオサライです。いよいよ暑さのピーク、夏本番。毎月第2土曜日は、小生、72歳の高齢者と云う事で、スタッフ全員の好意の下、休ませて貰っています。朝のNHK連続テレビ小説『おひさま』で、疎開の場面を見ていたら、小生、突然、66年前、疎開先で意地悪をされた、悲しい出来事を思い出してしまいました…。7月1日(金)からいよいよ、経済産業省が主導する節電アクション(節電対策)が始まりました。原発事故による放射能漏れは、益々、深刻の度を増してきています…。ハイキング中に蛭(ヒル)の被害にあったと云う記事が、雑誌に載っているのを偶然、目にした途端、去年の今頃、ゴルフで蛭にやられた事を思い出しました。歯科用のコンピューター断層撮影機器(Computed Tomography 以下、CT)が無いと、石川歯科では、正確な診断と治療、特にインプラント治療が正直、怖くて出来ません…。こんなに暑い梅雨は珍しいですね…。今日は夏至。去る6月18日(土)は、私の誕生日でした。大学入学時に、ある教授が新入生歓迎の挨拶で声高らかに言いました。ブログで何回か触れましたが、医局時代の仲間4人と1年に1回、毎年6月に、温泉地などの旅館やホテルを、4人で順番に予約当番をして、1泊2日の小旅行をしています。『絵で見ては 地獄の方が 面白し』現在、NHKの朝の連続テレビ小説『おひさま』では、第二次世界大戦戦中の張りつめた空気の日本を、ドラマ化して放送しています。写楽を語った以上、江戸随一の美人浮世絵師『歌麿』を紹介しなければ片手落ちと云うものです。今朝は日曜日の朝。浅間山の噴火と東北地方の冷夏が重なって大飢饉となり、不景気の上にインフレ状態、所謂、スタグフレーションに陥ってしまった時代に、東洲斎写楽は登場したのです。上野の国立博物館で、写楽特別展が開催されています。現在、私は72歳です。先日、昼食で、今年初めて冷やし中華を食べました。二泊三日の京都小旅行を無事に終えて、我が家に帰ってみると、原子力発電を存続すべきか、廃止すべきかを、メディア等で盛んに論議しています。そして3日目。豊臣秀吉の拠点と云うと、直ぐに、大阪の街をイメージさせます。つゆと落ち つゆと消えにし 我が身かな なにわのことは ゆめのまた夢を思い出していました。我々の傍にいた若いカップルや老夫婦も、1001体の千手観音立像や風神雷神などの国宝を目の当たりにして、ビックリしていました。昼食後、観光用のタクシーを手配して、三十三間堂に向かいました。清水寺正門の真っ赤な仁王門の前の門前通りが『清水坂』で、小物や土産物などを売る老舗のお店が、路の左右にギッシリと並んでいます。如何にも京都らしい、風情のある坂道です。久し振りの京都駅に着いた、旅行初日の午後。幸運にも、大人気の金閣寺で予定より時間が掛からず、スムーズに見学出来きました。新幹線に乗ると、何時も思い出すのが、フランスの超特急『TGV』です。小旅行をしていたので、ブログの更新をしばし、お休みしていました。東日本大震災で痛感させられたのは、我が国は多方面の分野で最先端を走る先進国と思っていたのですが、そうでも無いと分かった事です。東日本大震災で、宮古や大船渡などの漁港が壊滅してしまいました。茶華道教授の阿部治子先生の御好意により、当院の歯科衛生士2人が、煎茶を習い始めました。皆さんは犬派ですか?私が自分の腕時計を持つ事が出来たのは、大学生に入学した時に、お祝いとして親からプレゼントして貰った、シチズン社製の青い文字盤をした時計が始めてでした。
Copyright© まるまる録 , 2020 All Rights Reserved Powered by 全1788件の内、新着の記事から20件ずつ表示します。 東京都心まで約30〜40キロの近距離。jr常磐線と成田線、及び国道6号と国道356号が分岐する「交通の要衝地」でもあります。その上、地下鉄・東京メトロ千代田線も乗り入れています。 ことば検定とお天気検定 日々の話題をお届け
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