スポンサードリンクNHK「歴史秘話ヒストリア」で放送された、「真田丸」の場所についてまとめます。これまで真田丸の場所だとされる候補地はいくつかありましたが、専門家らの調査により、より確度が高いと思われる説が紹介されました。以下、あくまで一説ではありますが、「歴史秘話ヒストリア」で紹介された真田丸の場所についてまとめます。大坂冬の陣で突如姿を現し、その後破壊されて歴史の闇に消えた出城「真田丸」。一般的なイメージとして、真田丸は大坂本城に密着した「半円形」の出城、砦のイメージで語られて来ました。また、地元大阪では①三光神社付近②真田町付近③玉造商店街など、真田丸があったのではないかと推測される「候補地」が複数あり、住民の間でそれぞれ語り継がれています。今回の「歴史秘話ヒストリア」では、奈良大学や奈良文化財研究所の研究チームの調査、研究によって新たにわかった、「真田丸があったであろう場所」が紹介されました。それによれば、地中レーダー調査、それに広島藩・浅野家に残されていた絵図「大阪真田出丸」(江戸時代初期)などから、大阪城の少し南、餌差町一帯が真田丸があった場所とのこと。地中データ、絵図、それに現在も残る道筋などから推測したところによれば、真田丸は従来語られてきた「半円形」ではなく、「台形に近い四角形」であったようです。▼餌差町域の北側、私立明星中学校と東隣の寺院群敷地を含んだ「台形の範囲」が、真田丸があったとされる場所。敷地北東角(寺院沿い)にはぐるりと曲がった崖沿いの道があり、この高低差も真田丸の砦の一部として利用していたのでは、とのこと。真田丸は、現在の餌差町一帯に古くから広がっていた寺町を利用。特に、現在も残る心眼寺などの境内が崖の上にあり、崖面につくられた石垣と塀が砦の防御に適していることなどから、この地の地形、街路、それに寺の建築物を鉄壁の要塞、施設の一部分として利用していたようです。また、一般にドラマ等での真田丸の描写として、野原の中での攻防戦が描かれることが多いのですが、今回の説によれば真田丸はあくまで市街地の中の砦。狭い街路を進んで来た徳川の大軍が真田丸からの攻撃に直面すると、前線が退却しようにも袋小路のために素早い退却も出来ず。結果として地の利を生かした真田信繁側の大勝利に終わったのではないか、という説が紹介されました。また、番組では続く大坂夏の陣に出現した「もうひとつの真田丸」も紹介されました。文献よればこの砦の場所は茶臼山(現在の天王寺公園の一角)で、この砦は大坂冬の陣のおける徳川家康の本陣を再利用したとされます。信繁は茶臼山に十分に徳川軍をおびき寄せた上で、西側の丸馬出から出た別働隊が家康本陣へと斬りかかるという作戦を立てていました。しかし、別部隊の味方のフライングにより敢えなく作戦失敗に終わります。▼現在は天王寺公園となっている茶臼山一帯。「冬の陣徳川家康本陣跡 夏の陣真田幸村本陣跡」の碑が残る。公園のすぐ北(公園北口交差点の北東すぐ)には「信繁終焉の地」とされる安居神社が。茶臼山を捨てて一気に家康本陣へと向かった信繁でしたが、家康本陣の守りは堅いものでした。兵のほとんどを失った信繁は安居神社まで押し戻され、傷つき弱った信繁は、安居神社の松の木にもたれかかっていたとされます。この安居神社が信繁の「最期の地」だといわれ、現在も毎年五月に安居神社で信繁の慰霊祭が行なわれています。関連記事スポンサードリンクスポンサードリンク
両腕を広げたタモリ(71)が「こうですよ、こう! 出丸は!」と声のトーンを上げる──11月12日放送のnhk人気番組『ブラタモリ』の一場面だ。「真田丸スペシャル」と題したこの日は、大坂冬の… トラベルジャーナブラタモリの過去の放送回一覧を、県別にまとめました! リンク先では、放送内容の要約に加え、ルート、訪問先、アクセスも紹介。関東甲信越・伊豆と京都は、順次現地取材をしています。このボタンでスマホに保存筆者 趣味の旅行ブログで5
「ブラタモリ 2 東京駅 富士山 真田丸スペシャル(上田・沼田)」 - 2016年7月29日発売 isbn 978-4041043226 「 ブラタモリ 3 函館 川越 奈良 仙台 」 - 2016年 10月14日 発売 ISBN 978-4041043233 Copyright©
NHK番組のブラタモリ大阪城・真田丸編で、タモリさん推奨の大阪城・真田丸の歴史・地形を踏まえた観光ルートが紹介されました。この記事では、ブラタモリ大阪城・真田丸編のルートを、アクセスなどの情報とともに紹介します。トラベルジャーナは、年50泊旅行取材((注)2016年12月9日に、民間団体「『真田丸』発掘推進協議会」が、真田丸の土塁の一部と思われる地層を発見しました。記事中にその場所や情報を追記済です。築城にあたり、大阪は日本一の場所と言い残して他界した織田信長。その遺志を引き継いで、豊臣秀吉は天下統一の拠点として、大阪城を築きました。大阪城は、周囲を湿地帯に囲まれた、上町台地に築かれました。周辺の地形については、ブラタモリ大阪編で詳しく取り上げられています。簡単にいうと、大阪駅の南東に大阪城があり、そこが上町台地の北端にあたります。ブラタモリのテーマは、大阪城はなぜ難攻不落。築城当時、大阪城は、日本でもっとも難攻不落とされました。大坂冬の陣で豊臣秀吉は、自軍の2倍以上、20万の徳川の軍勢に取り囲まれたものの、落城を免れました。これには大阪城の、地形的な要因や、真田丸の大健闘が大きく関わっています。最終的に豊臣家は滅亡し、現在残っている、大阪城の石垣や堀は、徳川家が作ったものです(天守閣は再建)。しかし、1ヶ所だけ、豊臣秀吉の痕跡が残されています。天守閣が見える場所に、大きな井戸のようなものがあります。鍵を開けると、はしごで下ることができます。深さは7m以上。ブラタモリの取材カメラマンが下へ降りると、古い石垣があります。今夜のブラタモリ、大坂城天守間の地下石垣がでるみたいですね。私も7年前に降りて見学しました。(一般には開放されていません)大坂城地下石垣— 蓋と城 (@futatoshiro) 豊臣大阪城の本丸は、苦い記憶を消すかのように、盛り土ですっぽり覆われていたのです。その上に、徳川の大阪城が建てられました。100年も経つとそのことは忘れられ、江戸時代の後半には、豊臣秀吉の遺産と考えられていました。その後、識者が徳川によるものと突き止めたあとも、豊臣びいきが多い、大阪の人には伏せられていました。大阪城の北、現在の京橋駅の周辺には、大坂冬の陣の激戦地だった場所があります。徳川方は、大阪城の北東、京都方面から攻め入ってきました。大阪環状線の京橋駅の西側には、よく観察すると、周囲より高い場所を走る道路があります。ここは、大阪城の北東に当たります。尾根状の、高い道路を降りると、昭和47年に埋め立てられた川の跡となる道路があります。ブラタモリでは、京橋駅の西にあるA地点から尾根状の高い道路を歩き、階段を降り、川を埋め立てた道路上のB地点に出ました。川沿いの尾根上の高台といえば、自然堤防です。自然堤防:河川の上流から運搬されてきた砂などが、河道の岸に沿って堆積して形成された微高地(地形学辞典)大坂冬の陣のさいに、戦いに使える場所は、この自然堤防の上の部分だけでした。南に川、北に湿地帯です。自然堤防の上で、徳川方約1500、豊臣方約3000の兵が激突しましたが、この地形では勝敗はつきません。陣地を持たない、徳川方は引き下がらざるを得ず、大阪城を構える豊臣方が防衛に成功した形となりました。以上が大阪城の、北側の守りです。ブラタモリ大阪編で取り上げられたように、大阪城は東、北、西の三方向が上町台地の崖となり、湿地帯に囲まれ、自然の地形の力で、強固に守られていました。南側はどうだったのでしょうか?大阪城の南側、上町台地上の城下町には、大阪城へと向かう道路が整備されていました。大阪城の南側、地下鉄谷町六丁目駅の南東に位置する上町中学校のすぐそば(南西側)にある道路です。台地上の平坦な場所にも関わらず、下り坂があります。なぜでしょうか?ここは、深さ10m、幅30~40mの空堀(=水を流さない堀)の痕跡なのです。空堀に隣接し、土塁も設けられていました。これが大阪城の南側の守りです。自然の地形を使った東、北、西の守りに、南側の空洞を加え、全方向を守る、総構えです。この付近には、藤堂高虎らが布陣したと思われます。出典:空堀の跡はほとんどありませんが、ブラタモリは、住宅地に残る痕跡を紹介しました。場所は、田島北ふれあい広場付近です。さて、南にはこのように、巨大な空堀があったものの、空堀が直線的で、敵に攻略されやすい南東に弱点がありました。大阪城を守る空堀に弱みがある、南東側の弱点を埋めたのが、出城である真田丸です。出城とは、本城の防衛や攻撃を補佐する、小規模の陣地のことです。1614年の大坂冬の陣では、真田信繁(幸村)の軍勢が控えた、真田丸の顕著なはたらきで、徳川の大群を撃退しています。真田丸は、徳川勝利後、忌み嫌うように、完全に破壊されました。そのため史料がなく、絵図にあらわれる真田丸は、大まかに描かれていることが大半です。しかし、今年見つかった、松江歴史館所蔵の絵図は、非常に明確に真田丸が描かれており、画期的なものです。出典:ブラタモリは、新たな絵図をもとに、出丸跡と思われる場所を探し当てます。玉造駅近くの、大阪明星学園の北側にあたります。(追記)2016年12月9日に、真田丸の土塁の一部と思われる地層を発見した、民間団体「『真田丸』発掘推進協議会」(千田嘉博・奈良大教授ら)も、松江歴史館所蔵の絵図に見られる、四角い形状を想定して、発掘を進めていました。上が、真田丸の出丸があった場所である可能性があります。真田信繁(幸村)らの冥福を祈るために、1622年に創建されたのが心眼寺です。この一帯には、真田丸の痕跡?が見られたものの、幅45mの堀があったはずの南側には見つかりませんでした。徳川方に、1万人の死傷者が出た場所です。それもあって、徳川が、痕跡が残らないほど破壊したと、考えることもできなくはありません。このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。すべての記事を、運営者1名で担当しています。年間に50泊の取材旅行。しがらみがないので、良しあしをはっきり伝えます。東京都在住。情報訂正や、旅行相談(無料)は、旅館や観光地からの取材依頼もお待ちしています。記事での紹介と、300泊以上の経験に基づくコンサルティングをセットで行います。すべての記事を、運営者1名で担当しています。年間に50泊の取材旅行。しがらみがないので、良しあしをはっきり伝えます。東京都在住。情報訂正や、旅行相談(無料)は、旅館や観光地からの取材依頼もお待ちしています。記事での紹介と、300泊以上の経験に基づくコンサルティングをセットで行います。
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